ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

「四川地震にダム関与の可能性」のニュースと英米のダーウィン特集から思う事


ニューヨークタイムズの記事
(09/02/05) Possible Link Between Dam and China Quake (N)  
は、冒頭の方で「a growing number of American and Chinese scientists are suggesting that the calamity was triggered by a four-year-old reservoir built close to the earthquake’s geological fault line」と要約されている。

四川地震を調査していた米コロンビア大学の科学者が、この地震は当該断層から1マイル以内にあるダム、Zipingpu Reservoir の水圧が引き金になったかも知れないと言っている。American Geophysical Union in Decemberに発表したその見解は、当の地震が起きる以前にダムの重みによって地震学的な異変が多く発生していたという、中国の地球物理学者達によって最近になって明らかにされた調査結果と一致するという内容である。

2004年から2005年にかけてダムに水が満たされる間に、730回もの小さな地震が発生したと言われている。

この内容のニュースは日本語のAFPBB Newsでも報道されていたようで、はてなのブックマークで可成り話題にされることが分かった。
中国・四川大地震はダムが原因の可能性、科学者らが指摘 国際ニュース

要は、当初から三峡ダムとの関係が疑われていたようだが、近くにも大きなダムがあったのだった。そして実際に微小地震が何百回も観測されていたということであった。

日本人として誰もが思う事は、何故日本の調査当局やメディアが調査、取材したり、報道したりしないのかということだろう。地震が多く、アメリカよりも遙かに中国に近い、この日本で。

それはともかく、やはり改めて以前に何度も取り上げたように、
2008-06-11活断層、断層帯、地震活動帯 ―― 四川大地震関連の科学ニュース

2008-06-17 活断層、断層帯、地震活動帯(その2) ―― 岩手・宮城地震

活断層という擬人的な表現に頼り、活断層を主語にした表現を多用し、「活断層が動いた」という一言で済ませてしまう安易さを改めて反省すべきではないかと思う。

大きな地震の大元の原因はプレートの移動にあることはもう常識になってはいるものの、きっかけ、引き金というべき原因は今回言われているダムもを含むような、断層の両側に広がる複雑きまりない地殻の広大な領域にあるということがこういった事例で改めて気づかされるというものである。

活断層という擬人化表現でそれが隠される、というか、少なくとも見かけ上、目をそらされる。

もちろん多くの専門家は多方面の科学的な調査研究をされているのだろうが、少なくとも報道あるいは広報活動では「活断層」一点張りであって、報道または報告される一般人にとっては、今後の活断層調査の進展に期待する他なく、それ以外の思考の道を閉ざされることになってしまう。現実には幾何学的な二次元の面に過ぎず、それ自身エネルギーもなにも持たない断層それ自身の調査研究などはあり得ず、現実の調査研究はその両側の地質を調査研究することになるわけだが、やはりこの言葉の用法によって調査研究の領域や方法が影響を受けることは避けられないのではないかと思えるのである。報告や報道の場合も、簡単に済ませざるを得ない場合でも少なくとも(断層が)「動く」ではなく「ずれる」という表現を使うとか、「活断層の両側が動いた。」とでもいうように、少しでも正確な表現をすべきではないだろうかと思う。しかし、やはり言葉の効果からから言えば「断層の両側がずれる」といった冗漫な表現よりも「動く」という表現の方が圧倒的にインパクトが大きい。前者のような冗漫な表現では話も文章も下手だと思われがちだ。言葉の力というものは擬人的であるほど大きくなるのだろうか。

地球科学のような物理的な領域においてさえもこうなのだから、もっと物理的ではない微妙な領域になればこういう言葉の微妙な表現がもたらすものは遙かに大きいに違いないのである。脳科学コンピュータサイエンスでもそうだが、科学で流通しているこのような擬人化表現の最たるものはダーウィン進化論の「自然選択」ということばだろう。

今年がダーウィン生誕200年記念、種の起源の出版150周年ということで、昨年辺りからBBCニュースとNYタイムズの科学欄では特集記事が頻繁に出るようになった。日本では、新聞社サイトではあまりそのような特集はないようだが、昨年には科学博物館でダーウィン展が開催されたり、NHKダーウィンの名前を使ったテレビの動物番組が継続放映されたりしている。最近になってまたBBCニュースとNYタイムズ双方でダーウィン関係の記事と進化論に関わる数多くの記事が出ている。

BBCニュースでは、ダーウィン個人やその航海などに関する歴史資料的な記事や、ガラパゴスに関する記事が多いのに対し、NYタイムズの特集では専門家のエッセーやブログをも交え、多少論争的な様相を示している。また種の起源の全文そのものをPDFとweb形式で提供している。今はこの程度のサービスは簡単にできることだとは思うが、しかしここまで徹底するのは日本の新聞に比べてさすがである。

Let’s Get Rid of Darwinism (ダーウィン主義をやめよう)

The Origin of Darwin (ダーウィンの人となり)

Darwin, Ahead of His Time, Is Still Influential (時代を超え、未だに学ぶべきはダーウィン)

Darwinism Must Die So That Evolution May Live (進化論のためにはダーウィン主義は消えるべき)


これらの記事ではダーウィン主義を多少の異なった立場で論じており、簡単に読んで済ませられるものではないが「Darwinism(ダーウィン主義)」という個人名にismのついた言葉の使用が共通して問題にされている事が興味深い。大ざっぱに言って進化論から個人性とイデオロギー性を取り除かねばならないと言うことだろうか。しかし何れの記事にも共通しているのは、何れの論者も「自然選択」という概念一点に関しては揺るぎない信頼をおいていることだ。

もちろん、アメリカ人、アメリカの学者すべてがそうであるわけはないだろう。幾通りかの創造論者も多いわけだから。しかし、ダーウィン主義創造論との二極化と言うか、対立軸はアメリカまた英米のの特徴であるに違いない。それが日本やアジアやその他の地域とは確かに違うように思われる。個人的には「自然選択」という言葉の擬人性が未だに気になりつづけている。