ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

『クォーク 第2版 素粒子物理学はどこまで進んできたか(南部陽一郎著)』の読後(読中)感 ― その1、― よく使われる比喩 ― 物理学における擬人化について

 2008年、表題書籍の著者である南部陽一郎を始めとする3人の日本人が歴史的なノーベル物理学賞を受賞して日本が大いに盛り上がってから早や10年が経過しましたが、ようやく以前から読もうと思ったこともあった同書を読み始めることとなりました。講談社ブルーバックスとして1998年に刊行されたものですが、今年になってネットで購入した古書です。

 今のところ最初の1/4ほど読み進んだところで後を続けられなくなり、著者が一つの読み方として提案していた第20章から読み始めたのですが、それも数ページで続けられなくなり、改めて最初から読み直そうとも思ったのですが、その前に、対称性について述べた2つの目次項目があったので、拾い読みをしたり、かなり乱雑な読み方になってしまいました。いずれ最初から読み直そうと思いますが、取り合えずここで少々思ったところを、もちろん内容の理解からは程遠い感想ですが、述べてみたいと思います。

という次第で、今回の記事は、同書本来の内容とはあまり関係ありません。この問題は別ブログ「意味の周辺」で何度も取り上げている問題で、端的に言って科学における比喩と擬人化の問題です。その比喩というのは原子核の中で働いている核力の説明でよく用いられているキャッチボールの比喩のことで、この比喩について私は最初から理解不能で違和感とわだかまりを持ち続けてきたものです。所詮は比喩に過ぎないと言えばそれまでのことですが、とりあえずその違和感を次に書き出してみることにします。

  1. まず、キャッチボールは事実上人間にしかできない高度な技術であり、誰もが難なくできるわけでもなく少なくとも健康な手足と視力、それに知能も必要である。上手な人でも失敗することもある。物質粒子にこんな比喩を用いてどんな意味があるのだろうか?
  2. キャッチボールは2人の個人の一時的な意思と同意によって一時的に行う行為である。
  3. また、キャッチボールは重力のある大地に足を踏み据えなければできないものである。無重力空間を漂う人同士でキャッチボールができるだろうか?
  4. そもそも2人の人がキャッチボールをしたからと言って、そこに引力が生じると言えるだろうか?確かにキャッチボールをするためにはある程度2人は近づかなければならないし、近づくほどそれは容易になる。しかしキャッチボールなどをしなくても2人が近い距離を保つことはできるのである。 

 これは全くの余談になりますが、私の場合、個人的に野球やキャッチボールが嫌いで良い思い出がないという、いわば負の思い入れがあります。小学生時代以来のことですが、社会人の間でも野球やキャッチボールが嫌いだと公言するだけで顰蹙を買うこともしばしば、というような時代でしたね。いわば野球を押し付けられた世代でした。というわけでキャッチボールという言葉自体に良い印象がないという始末なのです。

 とはいえキャッチボールの比喩には鮮明なイメージを喚起することで、言葉自体にもインパクトがあり、使いやすい比喩ではあるのでしょう。しかし誰もがこの比喩を使っているわけではもちろんなく、例えば、昔の本ですが、A.アシモフ著、皆川義雄訳『科学技術 人名辞典』に『湯川秀樹』の項目があり、そこに次のような説明があります。「湯川は普通の電磁気力は光子の譲渡を伴うから、原子核内でも何かほかのものの譲渡を伴う”核力”が存在するに違いないと推測した」。ここでは「譲渡」というかなり抽象的な表現が用いられているのは興味深く思われます。しかし考えようによっては「譲渡」は「キャッチボール」以上に擬人的な表現であるともいえます。というのも少なくとも日本語で「譲渡」といえばこれは「所有権」の問題になりますね。物質粒子に所有権を想定できますか?

 南部陽一郎著の同書では、核力については最初次のような表現で出てきます。「二つの核子の間の力は、一方がメソンを放出し、他方がそれを吸収するというメソン交換過程によって生ずると考えられる」。この放出、吸収という表現は、普通に物体や物質について用いられている表現であって、その意味で擬人的であるとも比喩的であるとも言えず極めて自然な表現に思えます。ただ著者はこの種の力について終始この表現で一貫しているわけでもなく、後の方では盛んにキャッチボールを連発しているわけです。これはやはり放出と吸収という抽象的な概念ではできない鮮明な視覚的イメージの持つインパクトとキャッチボールというただ一つの単語で表現できるというメリットが活用されているように思われます。こうなればもう一つの定義された専門用語に等しく、少なくともすでに内容を理解している人たちにとっては、簡潔な表現で一種の表現の経済ともいえるのかもしれません。

 では、キャッチボールという擬人化的比喩を用いることと、放出と吸収をいう表現にとどめておくことで結果的にどのような差が生じるでしょうか。

 まず、このような比喩を用いずにただ、放出と吸収という表現だけを用いる場合、それはただ現象を知覚的に表現しているだけで、原因結果のメカニズム、あるいは動因と帰結という点では何の説明にもなっていないことは確かです。つまり核力の発生メカニズムについては何も語っておらず、単に「それで核力が生じるのです」と教条的に教えられるだけですが、説明される側の素人にとっては実用上はそれで何も問題はないと言えます。万有引力にしたところで、一般教養的には簡単な万有引力の方程式を与えられるだけであって、引力の発生メカニズムについて語られることもないわけですから。

 一方キャッチボールという擬人化的比喩を用いることは、現象の単なる知覚的表現からさらに踏み込んだ表現を求めることになります。なぜなら人間という意思を持つ生命体の行為で表現されることで、そこに何らかの動的なメカニズムの存在を印象付けられることになるとも言えます。結論から言って、そこが有利な点でもあり同時に危険性もあり、むしろ素人にとっては当惑と感じられる場合さえあり得るのではないでしょうか。私にとっての当惑は最初に箇条書きで述べた通りです。結果的に核力に相当する引力が生じるということについては、放出と吸収という表現の場合と比べてそれほど変わりませんが、多少は暗示を受けるということはあると思います。一方、原因というか動機づけという意味では、非常に人間的な解釈になるとはいえ、放出と吸収といった単なる知覚的、描写的説明では得られない概念が得られることは確かです。

 本当のところ物体や粒子に意思があるかどうかは知る由もないものの、そういうものがないと断言できる訳でもありません。というわけで、説明を受ける素人の側にとっては私の場合がそうであるように、当惑と混乱が引起される可能性があるとは言え、説明する側に向かってそういう比喩を止めてもらいたいと要求する権利もなさそうです。念のためにキャッチボールの比喩で見られるもう一つの問題を付け加えておくと、この核力のキャッチボールによる比喩の場合、陽子と中性子についてのみ擬人化され、ボールで表される中間子については擬人化されていないことです。

(7月27日、以下の青字部分を追記挿入)

上記をもう少し掘り下げてみようと思います。

ボールで表される中間子が擬人化されていないとは言え、中間子の挙動がそのままボールで表現されているわけではもちろんありません。ボールで表現されているということはニュートン力学で扱われる球状の物体ないしは質点で表現されていることになり、量子力学とは異なる別のメカニズムということになります。擬人化の比喩で表現するのであれば全面的に擬人化に徹して、中間子をも擬人化した表現を案出するほうが良いのではないか、と思うのですが、どうでしょうか。そうすることによって擬人化であることが読者にも良くわかるからです。   

 一概に比喩とか擬人化と言っても、物理・化学の場合に限ったとしても、様々なケースがあり、どう考えても不要であるか無意味な比喩が使われることも多いような気がします。これもまた余談になってしまいますが、科学ではなく一般的な話題であっても比喩は必ずしも物事を分かりやすくするために使われているわけではないことにも注意を向ける必要があると思います。単に話を面白くするためや強い印象をあたえるためだけ、場合によっては本質をそらすために使われることがあるように思います。もう昔の話になってしまいましたが、国民年金のシステムの説明で「二階建て」という比喩が盛んに使われたことが思い出されます。こういうシステムの話では現実のシステムそのものを具体的にきちんと説明すればそれで済む話です。比喩も擬人化あるいは物質化もそれによって現実が隠されたりぼかされることがあることが多々あるように思います。

 ただ物理学のように高度にフィジカルな分野ではこのような表現は比喩であり、擬人化であることはだいたい、だれにもわかります。ところが科学と言ってもメンタルな分野、特に心理学のような分野でこのような比喩、特に擬人化が行われると、場合によっては困った事態になりかねません。例えば本ブログでも取り上げてきた鏡像問題において鏡像を擬人化、つまり鏡に映った人物のイメージを擬人化することはすなわち鏡を通さずに直接見た人物と鏡像を同一視することになり、鏡像の問題そのものを解消してしまうことになりかねません。 

 以上、今回は表題の書籍の内容とはあまり関係のないテーマとなりました。今後は読中読後感をつづけてゆきたいと思いますが、真正面からの理解に近づくというよりも周辺をうろうろとする程度になりそうです。