シニフィアンとシニフィエによる上下前後左右の分析 ― 鏡像の意味論番外編その4
ブログ『意味の周辺』に、「鏡像の意味論番外編、その4」として5回にわたり「シニフィアン、シニフィエと上下前後左右」のタイトルで掲載した記事を掲載日順に、一括して掲載します。若干の後からの変更はありますが、各回の副題は次のとおりです。
一)副題なし(2018/01/15)
二)シニフィアンの一人歩き(2018/01/18)
三)シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き(2018/03/18)
四)多様なシニフィアンとシニフィエの対応関係(2018/04/04)
五)「定義」と「割り当て」をシニフィアン・シニフィエで解析する(2018/04/26)
5回分なので長くなりますが、掲載順の関係で元ブログの記事よりも分かりやすくなっていると思います。ただ、5回目最後の記事は一応全体のまとめになっていますので、最初にお読みいただいた方がインパクトがあると思います。全体的に読み返してみるといくらかの混乱があるようにも思われますが、それについては今後も再考することにして、とりあえず以下に:
非光沢PCディスプレイ画面に光沢塗装することで得られる目覚ましい画質向上
このブログでは今回が初めてですが、ちょっとした技術的な試みについてレポートしたいと思います。技術的な実験とはいっても、中味はだれにでも考えられそうなことで、実際にすでに実行している方々もあるのでないかと思います。しかし個人的に非常に目覚ましい効果が得られたので、こういう方法がもっと普及しても良いのではないかと思えるし、科学技術的にも興味深い問題を含んでいると考え、本ブログで公開することにしました。まず下の2枚の写真をご覧ください。

両方の写真に写っているのは同じもので、手前のノートパソコンの向こう側に大型のディスプレイを後付け追加したものです。どちらも昨年に購入したもので、いずれのディスプレイも4Kですが、ノートパソコンの方は光沢画面であるのに対して後付けの大型ディスプレイは非光沢つまり艶消し画面であったものに水溶性の「つやだしニス」を刷毛で塗った状態です。塗装する前の状態は写真に撮っていないのですが、とりあえず、塗装で得られた効果についてご報告したいと思います。
定量的に一言で表現すれば、元の艶消し状態と完全な光沢ガラス面との中間であると言えますが、実際には両者の長所のみが強化され、両者の短所が共に軽減されているといっても過言ではないでしょう。一例として次の写真を見てください。

赤い矢印の先は塗り残した部分です。こうしてみると、艶消しが残っている部分には右に映りこんでいるランプの光が拡散し、視覚的には映り込み部分と殆ど変わらないほどの光を反射しているのに対し、下の塗装面は事実上画面の黒さがほぼ維持されています。こういった個所を含め、塗装面を正面から見る限り、少なくとも光沢ガラスと同程度の乱反射防止能力は得られていると思います。実際に絵や文字を映した結果もその通りで、画面を正面から見る限り手前のノートパソコンの光沢面にくらべて遜色のない鮮明さを得ていると感じました。
一方、上の2枚の写真に戻ってみると、どちらにも上方の2つのランプはもちろん、やや明るい部分の映り込みが見られます。しかし映り込みの明瞭度に加え明るさの点でも、塗装面では光沢ガラス面に比べてかなり緩和され、穏やかでノイズ感が軽減されています。加えて光沢ガラスの方では四方に光芒が見られますが、これは多分ガラス下部の液晶構造によるものでしょう。上のディスプレイではその替わりにちょっとした笠のようなものが見られます。おそらく液晶組織の大きさや構造によるもので、塗装とは関係がないかもしれません。いずれにしても後付けディスプレイの塗装面の方が穏やかなことは確かです。
塗装は水彩絵の具用として販売されている「水溶性つやだしニス」というアクリル系の製品を刷毛塗りで行いました。下は最初に現在はあまり使用していない古い17インチディスプレイで試し塗りしてみたものです。下の写真のとおりです。
上の、4Kディスプレイの方も塗り方が下手で相当にムラがありますが、こちらは初めて塗っただけあって、ある意味でさらに汚い表面になっていますが、使用感には全く影響はなく、画像でも文字でも以前に比べて一段と鮮明で美しい諧調表現を得ています。塗りムラも手作業の跡が、自分で塗ったせいもあり、大げさに言えば手作りの温もりのような効果で、かえって心地よいくらいです。明るい物体が映り込んだ場合などにはムラが強調されますが、光沢ガラスの映り込みよりもずっと穏やかで、ムラ自体はかえって愛嬌というか、面白みになるくらいですね。以下、結論に加えてその他いくらかの考察を行ってみたいと思います。
- 現在、液晶ディスプレイに通常使われている非光沢ガラスの表面は、光沢ガラス面に比べてむしろ弊害の方が大きいのではないかと思われる。明確な映り込みは防止できるものの、有害な反射面はむしろ拡大される傾向がある。
- 非光沢に比べて光沢ガラスのほうがカラー画像の画質向上はもちろん、文字の読みやすさにおいても優れている。例えばMS明朝のように線が細く白っぽいフォントの場合、全般にPCディスプレイでは全体が明るすぎて眼にも負担が大きくなるが、非光沢画面の場合はさらに細い線がやや拡散するような傾向があってなおさら読みづらく眼の負担になるのではないかと思う。少なくとも個人的な印象ではこの点でも光沢面の方が眼に優しく、眼の疲労が軽減される。
- クリア塗装は、少なくとも非光沢ガラス面にアクリル系水性塗料を使用した場合、光沢ガラス面に比べて遜色のない画質向上の効果が得られ、映り込みにおいても、光沢ガラス面よりも大幅にノイズ感が低減される。
- 上述の塗装はムラのある稚拙な手塗りでも全く問題なく効果が得られ、完璧な平面度の光沢ガラス面に比べて心理的にはむしろ良好な影響をもたらすのではないかと思われる。これは芸術心理の領域ともいえるが、大げさに言えば油絵のマチエールのような効果、あるいは工芸の手作り感のようなメリットもあるのではないだろうか。
- 今のところ個人的な印象にとどまるが、現在の非光沢ガラスの乱反射は量的にも質的に最適化されているとは言えない。同じ乱反射でも紙などの乱反射に比べて何らかの規則性があり、この規則性がノイズ感を生み出しているような印象がある。
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専門的にはもっと高度な解析も、思い付きとしても、もっと多面的に考察できると思いますが、とりあえずこの程度で十分でしょう。ちなみに、使用した塗料は上記のとおり水彩絵画用として500円で市販されているものを用いました。水彩画ではないので水で薄めて問題なく使用できました。ディスプレイを立てて塗ると塗装面がだれ落ちるので水平にして塗る必要があります。刷毛の毛抜けにさえ注意すれば特に難しくはないと思います。
なお、PCディスプレイが眼の疲労に与える影響については別のブログでも最近、取り上げています
http://takaragaku.blogspot.com/2017/09/pc-el.html。
そのうち、ノートパソコンの光沢ガラスの方にも塗ってみようかと考えています。
以上。
上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)
『視空間』とされるものは、それ自体は文字どおり空虚な空間であって物質ではないのはもちろん、その中に成立する像そのものでもない。しかしそれには厳然として上下・前後・左右の三つの方向軸で表される方向を持っている。それに対して物体、それも個体である物体も、同じように上下・前後・左右の方向あるいは「側」ともいえるが、そういう方向を持つとされる。しかし一体何を基準にこのような方向が定義されるのだろうか。
視空間の上下・前後・左右は基本的に(言い換えると既定の位置で)身体の上下・前後・左右と一致している。その人間の身体そのものの上下は基本的に(既定の位置で)天と地の方向、言い換えると重力の方向と一致している。前後はそのものずばりで、あらゆる意味合いで前方と後方に一致している。左右軸はそのあとで、つまり最後に決まるので、大阪府立大学名誉教授の多幡先生によって「左右軸の従属性」という概念が与えられている。(この考え方については、少なくとも人間と眼を持つ動物については受け入れられる有意義な概念であると考えます。ただ異なった表現もできるとも思いますが、別の機会に譲りたいと思います)。
このように視空間の上下・前後・左右はだれにとっても普遍的で一義的に決まっているとしてまったく問題はないと考えられる。
ところが人間以外の動物や道具や無機物など物体一般の場合にもいつもこのように上下・前後・左右が一義的に決まるとは思えない。幾何学的な形状の場合にはなおさらそうである。この点で、幾何学的な形状や性質、例えば対称性などで上下・前後・左右が決まるという、よくある説は、まったく受け入れることができない。
単なる物質の塊を考えてみよう。例えば宇宙のどこから来たかもわからない隕石などがそうです。ただし、当座の目的で観察者の上方と一致する側を上とすることは自然であるし、対面する側を前と決めることは有りだとはいえる。しかし、それは本当にその観察者のそのとき限りでの定義に過ぎない。したがって単なる物質の塊には一義的に決まる上下・前後・左右はないと言える。
動物の場合はどうだろうか。改めて振り返ってみると、幾何学的に上下前後左右のバランスで人間に近い動物は事実上、類人猿とタツノオトシゴくらいなものだろう。トンボなど、空飛ぶ昆虫は、鳥類もそうですが、羽を広げると上下が薄っぺらくなる。カニなど、地を這う生き物も上下が高くない。殆どの動物に共通する特徴は、眼が向かう方向と移動するときに進む方向が前方という点だろう。しかしヒラメのように前が見えるかどうかは別として目が殆ど上を向いている動物もある。
移動する方向で見ると、カニは左右方方向で、それも左右のどちら側へも移動できる。カニの場合は眼の向きと移動する方向は一致しないと言える。また最後に決まる方向が左右であるという表現もカニの場合に限って適用されるかどうかは問題がなきにしもあらずである。というのも、カニの場合は前後の形状が比較的に似ていて、遠くからみるとまず動く方向が目に付くのではないか。最もどちらが右でそちらが左かは、それではわからないが。それでも最初に判断できるのが左右の方向になる場合も少なくないだろうと思われる。
動物の場合に普遍的に言えることは、1)正立した人間の視空間で、同様に正立した動物を見た場合に人間の視空間の上下と一致する方向が上下であること、そして2)眼の向きと進行方向の2つの要素で人間の視空間の前後と一致する方向が前後である場合が殆どである。ただし、後者にはカニのような例外もある。
道具や機械の場合は動物の場合とはまた異なる面がある。乗り物の場合は簡単で、まず例外なく搭乗する人間の方向に一致している。 ところが乗り物以外の場合は人間とも動物とも、もちろん無機物とも異なる問題がある。ピアノの鍵盤を考えてみるとわかりやすいのだが、普通は高音側を右といい、低音側を左としているのではないだろうか。一方、演奏する人に向かう側を前とみなすのが普通と思われるが、そうすると左右の方向が人間や動物とは逆になる。一般に道具や機械は人間が両手で操作するものである。だから右手に対応する方向を右とし、左手に対応する方向を左と決めのが自然なのだ。つまり道具や機械の左右は人間の都合に合わせて決められるのである。これは左右の定義が逆になるということであり、私はこれを本ブログや論文で「意味的な逆転」と称している。普通に左右の辞書的な定義とされる「人が北を向いたときの東側が右である」という点で逆になる(西側が左)のだから「意味的な逆転」というのは正当だと考える。
植物や地形(山河や湖など)などの場合、上下はどの場合もまず例外なく人間の視空間の上下と一致している。前後と左右については植物学や地形学で決められる場合もあるだろうし、もっと実用的または技術的な目的で、あるいは美的な判断で適当に決められる場合もあるだろう。それ以外の場合は最初に挙げた隕石のように単なる無機物の塊と同様、視空間との関係でその場限りの定義を与えるほかはないだろう。
このように考察を進めてくると、一般に生物や道具や機械の前後と左右はその機能的な特徴で決まるといえる。機能と考えると、動物の場合はその動物自身にとっての機能と言えるが道具の場合は人間にとっての機能になる。植物の場合は、動物にとっても言えることだが、多分に人間にとっての機能になる可能性が高いといえる。
さて、現下の目的は視覚認知の研究である。対象の機能といっても視覚的に認知できる限りでの機能その他の特徴であり視覚的に判断するほかはない。つまり視覚像、端的に言って眼でとらえた像で判断するほかはないのであり、これは直接見る場合も、眼鏡や望遠鏡を通してみる場合も鏡を介してみる場合も同じことである。つまるところ視空間の中の像で判断しているのである。機能と表現しようが、単に特徴あるいは性質と表現しようが、像あるいは像の部分の形状や色などの視覚的特徴で判断しているのであり、つまるところそれは形状や色の持つ「意味」というよりほかはないものである。
音の場合、そのさまざまな特徴からそれが何の音なのか、誰の声なのか、音楽なのか雑音なのか、さらには音楽の場合には音楽が表現する内容が認知できなければ音を聞く意味も音楽を聴く意味もないのと同様、言葉の場合は当然、言葉の表す意味が認識できなければそれは言葉ではなくなる。このように言葉の本質は当然意味であり、同様に知覚される音の本質も音の意味であるのと同様、視空間で認知される像、形状や色をっ持つ像の本質も他の感覚による知覚と同様、何らの内容を意味するものであり、意味の内容でもある。
例えば絵や写真を逆さにすると印象の全然異なるものになり、何の絵かわからない場合もあればまったく違ったものを意味するようになる場合さえある。しかし幾何学的な形状自体は逆さにしたところで何も変わっていないのである。像の形状その他の特徴が視空間の上下・前後・左右と不可分の関係にある。上述の人や生物や道具の機能を含め、さらには美というような芸術的な意味を含め、視空間で把握される意味は上下・前後・左右の要素と不可分の関係にあり、上下・前後・左右の方向自体もそれ自体が意味であるともいえる。
幾何学的な性質も図形の持つ意味とはいえるかもしれない。しかし長さや角度などの幾何学的性質は相対的に規定されるものであり、視空間の上下・前後・左右とは関係のないものである。対称性、具体的に鏡面対象とも呼ばれる面対称にしても相対的な関係である。面対称を「左右対称」と呼んだりすることがあるからややこしくなるのであって、面対称または鏡面対象は左右とは無関係である。上下と前後に対する左右の特殊性は別のところにある(文末注)。要するに幾何学的特徴は対称性をも含めてすべて異方的な視空間ではなく等方的な幾何学空間の属性である。
というように、視空間は意味の空間なのだが、この空間、上下・前後・左右を持つ空間は眼球という一種の臓器、逆の言い方をすると、一種の臓器である眼球という物体と、完全な対応関係にあり、それも一つの重要な問題といえるのである。
(10月17日追記注記)
例えばピアノの高音部と低音部の関係をみると、それが外形に表れているのはグランドピアノだけであって、アップライトピアノは形状では左右の区別がつかない。また機能的にも左右を入れ替えることが不可能なわけでもない。人間を含め多くの動物についてもそれが言えるので、対称性が左右と本質的な関係があるのではないかという疑いが生じることは理解できる。しかし、これも上下でこういう対称性を持つ機能がないわけではない。例えば砂時計を想起してみよう。
(2017年10月16日 田中潤一)

