ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

脳研究とMRI

BBCニュースの記事 "Scan shows how brains plot future"
http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/6216913.stm

と、読売オンラインの記事「脳で数字を処理する場所を特定…京大教授ら」
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20070104i303.htm

は、共にMRIを用いた研究で、最近の脳研究というのはMRIを使う研究が多いということが分かる。後者の方は「機能的磁気共鳴画像装置(fMRI)」ということである。

この種の研究は、記憶のメカニズムに関する研究である昨年12月18日のNYタイムズの記事"In Memory-Bank ‘Dialogue,’ the Brain Is Talking to Itself "
http://www.nytimes.com/2006/12/18/science/18memory.html?_r=1&oref=slogin
に比べると個人的に、受けたインパクトはずっと薄かった。

この種の研究紹介で私がいつも納得するための障害に感じることは言葉あるいは用語の問題、言葉の限界、言葉の使用と理解との齟齬、といった問題である。この場合、日本の研究では「処理する」という言葉が結論的に使われている。見出しでも「数字を処理する場所」という表現が使われている。「処理する」という言葉は一種のブラックボックスのようなもので内容は全くわからないままに使われる場合が多いのであるけれども、脳研究で使われる場合も典型的にそういう使われ方ではないだろうか。

「処理する」という表現はコンピューターなどで使われる場合は内容が自明のことであって、プログラマーがプログラムを作り、プログラムはシステムエンジニアの設計にしたがっているわけであるから、情報を処理している主体は最終的にコンピュータの使用に関わる多数の人々とでも言える。しかし脳で何か情報処理されているという場合、一体プログラムがあるのか、あるいは処理する主体はなになのか、そのようなことは全く未知のままに「処理」という言葉で解決されたような――もちろん完全にではないにしても――形に見えることに、一種のストレスのようなものを常に感じる。もちろんこういう研究を否定することはできないし、応用面でも期待できるものは大きいのであろうとは思うけれども。

英語によるBBCニュースの場合、日本語の「処理する」に相当する言葉が使われているとはいえない。しいて言えばworkという言葉が使われているけれども、この言葉は自動詞で、使われる状況も異なる。核心の部分で使われている言葉はactiveteという言葉だろう。これはこれで、それなりのブラックボックス的表現のように思われる。

何れにしろ、研究者自身が大抵の場合、「研究はまだ糸口についたばかり」といった表現をしているけれども、この種の研究はあまりにも大きな未知のブラックボックスを扱っているように思える。機械のブラックボックスは優れた多数の人物が設計製造に関わって出来たものであることが分かっているが、脳はそれがわからないままである。