ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

昨年末までを振り返って ―― 動物ニュース、科学コミュニティー、意味論など


昨年秋の終わり頃から多忙になり、ウェブサイトを含め、更新できない期間が続いた。
年末から年始めにかけ、少し時間をとってブログの方から再開しようと思ったが、ため込み、あるいは見過ごしてきたニュース記事の中身から何かを拾い出してあれこれ考える気にもなれず、これまでの記事を振り返って何か書こうと思い書き始めたが、まとまりがつかず、結局少し書いては中断し、結局は今日に至ってしまい、もう2月になって一週間・・・・・。
今はともかく、何度か日をおきながら続いて書いた物に手を入れ、脈絡が不自然で不細工になるが、無理をしてでも1つの記事に繋げ、何とか気分的に区切りをつけなければ前に進まない気分になっている。

一昨年初めに取り上げた記事、
◆2007-01-27 冬眠サバイバル事例続報

は、実のところ、このような記事をこそ集めて記録と記憶にとどめておきたいと思うような記事だった。というのも、現在の科学的常識ではあり得ないような例外的な出来事といった種類の記事をリストアップしておきたいというのが、(もちろんそれ自体が目的というわけではないが、)1つの狙いだったからだった。そういう意味でこの記事は医学というか、生理学というか、そういう分野の常識では例外的な、あり得ないとも言えるような事件だったから、このウェブサイトとブログを始めて早々にこういった事件が起きて報道されたことは願ってもない事だった。しかし、この事件はニュースそのものとしてはテレビやラジオの各局でも報道されるほどのニュースではあったが、科学欄の記事として現れたのはBBC科学ニュースの記事として現れたのが最初だった。日本の新聞社の中では、その後可成りの日数が経過してから、毎日新聞で科学欄の科学記事として取り上げられている。しかし日本の他誌では科学欄ではその後も取り上げられなかったようだ。内容的にもBBCニュースの方が詳しく興味深い内容まで紹介されていたように思う。

実のところこの種のニュース、というより出来事、つまり、現在の科学で説明できないとか、現在の科学理論に反するというような出来事は、必ずしも科学の記事として現れない場合が多い。特に直接人間そのものに関わるような問題ではそうだ。こういう、直接人間に関わるような問題では、具体的な科学の分野としては医学とか、精神医学、心理学、といった生命科学と言われるような分野になる。医学に関していうと、毎日新聞のサイエンスカテゴリーでは医学健康記事もカバーしている。アサヒコムでは、最近では[ライフ」のカテゴリー下に医療・健康のカテゴリーがある。医療・健康のカテゴリーがあるのはBBCニュースでもNYタイムズでもそうだが、どちらも遙かに規模が大きく、NYタイムズの方は百科辞典的な検索もできるようになっている。またどちらも内容に応じて、記事によっては科学欄にもリンクされ、科学の記事としても利用できるようになっている。こういうシステム的な徹底というのはどうしても日本の分が悪い。またなかなか追いつきそうにもない。

話を戻して・・・
しかし、精神医学とか心理学の方面では医療問題よりも、犯罪に関わる出来事が問題になる可能性が大きい。もちろん医療に関係しないわけではないが、ニュースとしては犯罪に関わる場合に表面化する。犯罪に関わる心理あるいは精神医学関連のニュースが科学欄にあるいは科学上のニュースとして出るというのは、これも日本ではあまりありそうにない。これもBBCニュースの科学欄では結構この種の記事も在ったように記憶している。

それにしてもBBC科学ニュースは目ざといというか、色々と興味深いニュースをいつも豊富に取り上げている。さきの「冬眠」のニュースにしても、日本のニュース、少なくとも新聞記事のニュースでは紹介されなかったような内容まで報道されていたが、特に動物関係のニュースは多岐に渉り、多面的に取り上げている。兵庫県豊岡市で天然記念物のコウノトリが「放鳥」されたとき、事実上日本の記事と同時に、日本の新聞よりも詳しく、報道され、放鳥されたコウノトリがロシアから贈られたものであることもわかり、この「放鳥」された天然記念物の鳥がどこから来たのだろうかという疑問に答えてくれた。

◆2007-05-24 野生のコウノトリと特別天然記念物

この読売新聞の記事を読んだ読者は、多少とも関心を持って読んだのであれば、だれでもその「放鳥」された鳥がどういう素性の鳥なのか、疑問を持たないはずはないと思うのだが、過去の記事や地方版の記事をみても、「放鳥」という便利な言葉1つで済ませている。この記事の場合、どう考えても放鳥した鳥がロシアから贈られたものであることを、秘密ではないものの、意図的に伝えたくなかったとしか思えない。

もっとも、このような問題は日本だけの問題というわけでもないのだろう。温暖化関連の記事などはその最たるものであるから。しかし、その程度と度合いには、問題はあるだろう。

というのも、放鳥したコウノトリがロシアから贈られた鳥であるというようなことは政治的にセンシティブなことでも何でもない筈だからである。むしろ意図的に公表を避けるのはロシアに対して失礼だし、個人的にもいやな、悲しい気がする。この程度のことまで公表を渋るというのは何に対してセンシティブなのだろうか。それは当面、天然記念物という言葉に対してセンシティブになっているとでも考える他なさそうだ。しかし、この天然記念物という概念、これは法律で定められている概念だから、やはり政治的な問題ということになる。しかしこれには科学のというか科学上のオーソリティーが関わっていることもまず間違いが無い、すべてこういうものは現在の民主主義政治では科学上の根拠に基づいているはずであるからである。こう考えてくると、科学自体、科学そのものの中にも、科学の本質自体の中にも政治性があることがわかる。実のところ、科学にはオーソリティーが必要なものである。オーソリティーが必要であるということは、視点を変えれば1つのコミュニティーが必要あるいはコミュニティーの存在が前提条件であるということであり、そこには多少の民主主義的な要素も入り込んでくる可能性もある。科学は多数決ではないとはよく言われるが、多少はそういう要素もないとは言えない。オーソリティーの要素があるということは、他方で多少の民主主義的な要素もあるはずだからである。100パーセントの権威主義というのも100パーセントの民主主義というのもあり得ない。「ニセ科学」を告発する問題というような論議が起きてくるのは科学のこういった、オーソリティーであれ、民主主義であれ、コミュニティー性からのことであろう。つまり、権威というものを含め、コミュニティーのルールとか習慣といったものを抜きにした抽象的な科学というものはあり得ないのかもしれない。哲学となるとこの点は科学とは多少、あるいは微妙に違ったものになってくるのだろうが。

こんなことを考える以前に、この種のニュース、すなわち野生動物関連のニュースには科学とはなんぞやという問題について改めて考えさせられる要素が色々ある。天然記念物という法律の指定は科学とどのような関係があるのか、というような問題もそうだが、まずこの種のニュースが科学記事として報道されること自体の根拠とは何なのかという問題がある。科学欄自体が、科学・自然となっている場合が普通であったし、実際それが自然であってそれ以外にないのだ。だから新聞記事のカテゴリーでいえば政治経済と社会以外のカテゴリー、人間社会のカテゴリー以外、それは当然自然に関わってくる問題はすべて科学・自然の範疇に入れざるを得ないということになるのだろう。しかし、超自然というか、形而上学といった範疇もある。この範疇でいえば数学の話題も時には科学ニュースに登場するが、その割合は非常に少ない。日本の新聞では哲学的な記事が科学欄に登場する事はまずないが、ニューヨークタイムズでは汎心論を主張する哲学者が続出しているという傾向を紹介する記事があった。但しこの場合は哲学でも科学に近いと考えられている立場の人たちのようで、現在主流の哲学は科学に近いと考えられているからかも知れない。

いずれにしても野生動物に関してのBBCニュースの取扱いの多岐に渉ることと、その徹底には相当なものがある。捕鯨の問題では、とくに日本の捕鯨に関しては常に監視を怠らずに、機会がある毎に伝えている。但しそれ以外にも家畜の屠殺方法の問題とか、特に動物実験の問題については頻繁に取り上げられている。こういう部分の徹底したところは日本の新聞はなかなか追いつかないところのように思える。もちろん、そういう議論がないと良い得訳ではなく、科学という範疇の中でシステム的に扱うという意味での話である。

このBBCニュースの科学欄は去年のいつ頃かまでは「Science and Nature」だったたように記憶しているが、昨年、知らない間に「Nature」が「Environment」に変わっていた。時を同じくして、かどうか分からないが、アサヒコムでもカテゴリーのタイトルが変わったようである。以前の朝日新聞で科学欄は確か「科学・自然」となっていたように記憶しているが、いまは単に「サイエンス」にかわっている。確認してみると、今は毎日も、読売も、単に「サイエンス」になってしまった。読売では科学とは独立したカテゴリーとして「環境」ができている。ニューヨークタイムズでは以前として「Science」で変わらないようだ。日本の各紙はニューヨークタイムズ紙にならったのかも知れない。

いずれにせよ、新聞のカテゴリー枠における科学記事の取扱いは日本、外国を問わず、生物関係、生命科学に関わる部分で揺らいでいる。それは科学というものそのものの本質(といっても「科学というもの」が分かった上での本質というより分からないという意味での本質)に関わる事でもあり、現代という時代に科学がおかれている状況を何らかの意味で示している事は確かであると思う ―― 科学とは何なのか? 科学をどのように考えれば良いのか? 科学をどう評価して良いのか? 科学を信頼して良いのか? 科学の発達は良いことであったのか? 科学にどう立ち向かえばよいのか? 逆に、非科学、反科学にどう立ち向かえばよいのか? 非科学と反科学をどのように評価すべきなのか? 科学にどう追いついてゆけばよいのか?  現実の世界で科学はどのように機能しているのか? 特に政治の世界で科学はどのように機能しているのか? あるいはもっと現実的な問題として、若い人の理数系離れをどう考えるのか? 理数系の学力低下で将来は大丈夫か? 等々。こういう後者のような現実的な社会の目的利害に関わったような問題と前者のような無前提の問題意識とでどのように折り合いをつけるかいう問題は重要だろう。この辺りが多くの議論では抜け落ちているように思われる。このあたりの問題、議論こそ、人間社会でこれから重要になってくる問題であるはずだ。その意味でも専門の科学者ではない取材記者による新聞の科学欄の記事は今後さらに役割が大きく重要になってくる筈なのだから、単に多くの話題を取り上げるだけではなく、内容的にも充実させて貰いたいし、主体性と問題意識をもって取材と報道をして貰いたいものだと思う。見かけ上は日本の各社も科学欄にも力を入れてきているように見えるが、システム的な徹底には少しずつ、形だけ、英米のあとを追いかけているだけのようにも見える。形だけにしても、例えばBBCニュースでもニューヨークタイムズでも、過去の記事の場合、トップページから何時でもアクセスできるとは限らないが、URLへのリンクが切れることはない。こういう面も含めて徹底させて欲しいものだと思う。


これまでに取り上げた科学ニュースの中、特定の1つのニュースで、それ以後、何度も振り返って考えさせられることの多かったニュースは、それでも日本の、毎日新聞のサイトに現れた「鏡像問題」に関わる記事だった。

◆2007-12-18 二つの「心理学的」問題の記事 ― 鏡像問題と教育問題。共に毎日jpの科学欄。一つはアサヒコムにも

毎日新聞サイトで、鏡像問題が解決されたと主張する研究成果が外国の雑誌に掲載されたとい記事が  掲載されたのは、科学欄の記事としては珍しいテーマだったとも言える。もっとも、この鏡像の左右が逆転して見えるという問題は非常に日常的な、ポピュラーな現象で、テーマ自体は多くの読者を引きつけることが確実なテーマであるとは言える。私自身、この記事に触発され、過去に考えたことを思い出したり、改めて考え直したり、その後も繰り返して考え、その後読んだ哲学書などからそれに関わるような問題を見いだしたりし、繰り返して考えさせられることになった。

ただ、今になって改めてそのニュースを読み返してみると、私自身はその記事の一部に触発されて、自分自身の文脈の中であれこれと考えていたのであって、必ずしも当該記事の文脈で考えていたのではない事に気がついた。文字通り触発されたのだったと言える。

改めて記事を読み直してみると、テーマは学者間の論争の紹介であり、学者間といっても認知心理学と物理学という、見かけ上非常に離れた分野の学者間の論争である。その論点も記事を読んだだけではわかりにくい。少なくとも物理学上の論争とも言えないし、心理学上の論争とも言えないわけだが、どちらかといえば心理学上の論争になるような気もする。さらにその論点自体、記事を読んだ限り、はっきりしないものになっている。『多幡名誉教授は「鏡像の左右逆転、非逆転の根本的な理由に、心理は本質的なかかわりを持たない」と訴える。』と毎日新聞の記事にあるように、多幡名誉教授はこれを基本的には心理学ではなく物理的な問題であるとすることによって、「鏡像問題に決着をつけた」とする高野陽太郎教授の論文を批判している形になっているが、記事の最後で紹介されている、多幡名誉教授の「鏡像問題は、物理的に説明できるという考え方と心理がかかわっているという考え方が争ってきた。物理的理解をしっかり踏まえた上で、心理的研究をさらに進めるならば、今後の鏡像問題研究はますます興味深くなると思う」という発言では、結局物理的な問題と心理的な問題の両方が関わっていることを認め、今後の展開の方向としてはむしろ心理学的とされる方向に関心を向けているとしか思えない。記事そのものの前提として、物理的問題か心理学的な問題かという二者択一問題のようなとらえ方をしているが、現実にはどちらかと言えば心理学の圏内での異なる見解の論争のようにも思われるのである。ところが問題が二者択一論になってしまい、心理学者の高野教授は「心理」の方をとり、多幡名誉教授のほうは「物理」の方をとる。

一般に、科学の解決されていない問題が「何々問題」という名前で呼ばれることが多いが、大体は特定分野内の問題であって、具体的に何を解こうとしているかが確定しているのが普通と思われるのだけれども、「鏡像問題」についていえばテーマが「何故人が見る鏡像は左右が逆転しているのか」という、きわめて日常的な語法で表現された問題であって、しかも「何故」という、様々な答え方のできる問われ方である。「なぜ」という問われ方にはどんな種類の答え方もできる。

今思う事は、この問題は「鏡像問題」という枠で考えるのもそれなりの意義はあるのだろうが、それよりも、画像、イメージとは何かという問題、対称性とは何かという問題、そして左右とは、上下とは、前後とは、という意味の問題、といった諸々の問題への入り口として意義があるように思われる。しかもこの種の問題はどれをとっても多くの人にとって興味深い問題でもある。繰り返せば、「画像とは、映像とは何か?」、「イメージ、視覚イメージとは何か?」、「対称性とは何か?」、「左右とは、前後とは、上下とは、何か?」、という諸々の問題。いずれも専門的には「(認知)心理学」の問題となるのかも知れないが、それ以上に、科学上の問題である以上に、芸術上の問題であり、技術上の問題であり、何よりも哲学上の問題でもある。

要するに、この「鏡像問題」は科学以前、科学のフロント、あるいは科学以外の、芸術や、あるいは人文科学と呼ばれる分野など雑多な「領域」に通じる門がそれぞれ、そこここに不規則な方向に開いている広場のようなもので、1つの日常というか現象である。鏡像問題が物理学と心理学の何れかであるとか、その2つから成り立っているとか、その真ん中か真ん中からずれた何処かで区切られているとか、そういった問題ではないように思える。

であるから、以前はこの問題の心理学的と言われている部分が意味論的な問題ではないかと思ったのだけれども、実のところこの問題そのものというより、この問題のフロントが意味論の問題のようにも思われる。もちろん問題の中、奥の方にも意味論的問題があるが、この問題そのものが意味論的なあるいは意味論上の問題というのが相応しいのではないだろうかと思われてくるのである。

この、科学のフロントにある現実そのものを無前提に見つめて把握し、意味を与え、ばあいによっては種々の科学や芸術やもろもろの分野に振り分け、案内するのは文字通り意味論の仕事ということになる。

意味、とか意味論とか、馬鹿の1つ覚えのように意味意味と、ブログのキャプションにも用いたりしているが、もちろん、専門的に詳しいわけではない。改めて分野として意味論というものを調べてみると、これは実に錯綜しているともいえる。もともと学問の分野というものは錯綜しているのが常ではあるが。ただ、哲学は別格としても、言語学とか、記号学とか、ただ、形式と意味という対立というか、一対のセット、組合せの一方であると考えてみれば、広い意味での論理学の一部と考えるのが最も正当だろう。こうしてみると広い意味の論理学とその応用の範囲は広大なものであることが分かる。

しかし、抽象的な意味論ではなくて具体的な意味に即して個々の問題に当たってゆくなら、それはもうすでに個別科学とか芸術とか、それぞれの分野の問題になってしまうし、意味論自体が個別科学のようにも扱われている。意味論は個々の科学の内部とその奥に姿を現すと同時に、すべての科学を覆いつくすものであるようにも見えてくる。