二つの心理学ないし脳科学の実験研究― 「英語力上達に関係する脳」と「心の温かさ」
科学上の発見のニュースと言えるものは、大抵は専門誌に掲載されたとか、発表予定であるなどの契機でで公開されることが多いが、記事の書き方、表現の仕方はその都度、微妙に違っている場合がある。多くの場合はそういう論文が発表された、とか、そういう内容である、と言った、いわば間接的な表現が多いが、断定的に「分かった」とか、「つきとめた」などの単純明快な表現の場合もある。そのような断定的な表現も部分的に使用されていたり、文脈的に違和感なく受け止められるような場合もあるし、内容的にも常識的にそのような表現で差し支えないように思われる場合もある。例えば技術的な内容だとか、具体的な物質や現象の発見などはそういう断定的な表現でもあまり違和感を感じさせられることもない。しかし内容によっては、少なくとも総合的な部分では、そういう断定的な表現に強い違和感を覚える時がある。アサヒコム科学欄の次のニュースなど、特にそういう印象が強い。
(08/11/07) 長期学習者は英語を省エネ脳で理解 文法中枢調べ判明(a)
この記事では、見出しを見てもそういう感じが強いが、内容をみると、「・・・英語を学ぶ際に重要な働きをする脳の部位を突き止めた。」といった断定的な表現だけで終始している。
同じアサヒコムの、最近の記事でも次の記事
(08/10/27) 手を温めるとやさしく親切に行動 米大学実験 (a)
などでは違っている。この記事では、「・・・こんな実験結果を米科学誌サイエンスに発表した。」という表現で始まり、「・・・物理的な温かさが人間関係の温かさに結びつくとしている。」と、間接的な表現で締めくくっている。
BBCニュースやニューヨークタイムズなどの方も大体は後者の表現に近く、また大抵は雑誌発表内容の紹介だけではなく研究者本人のコメントを紹介し、さらに当事者以外の専門学者のコメントをも直接話法で紹介している場合が多い。日本の記事でも昨年の、毎日新聞で紹介された鏡像問題の記事では、「東京大の高野陽太郎教授(認知心理学)らは11月、英国の心理学専門誌に実証実験に基づく鏡像問題の論文を発表した」ことを契機とした記事だが、この論文に批判的な多幡達夫・大阪府立大名誉教授の解説の方に重点がおかれていた。もっともこの記事では見出し自体が「鏡の中:左右逆転の謎 古くはプラトンを悩ませ・・・「物理」「心理」で今も熱い論争」、と言うように論争自体がテーマになっているとも言える。
このような例を見ても、冒頭のアサヒコムの記事の書き方は、こういう分野の研究紹介としては少し単純すぎるというか、批判精神がなさ過ぎるのではないかと思う。
今回の記事の場合、個人的に、この記事で紹介されている酒井准教授の著書「言語の脳科学(中公新書)」を比較的最近に読んだ記憶が新しいことも関係している。今回の記事の研究は記事を読んだ限りでも大体、この本で解説されている研究方法に沿ったもので、基本的に「言語のモジュール仮説」と言語の「機能局在説」に基づいた研究であることが分かる。これらの説自体、酒井准教授自身も仮説だと言っている訳であるから、おそらく学会でも異論が無いわけでもないだろうと予測できるものであり、こういう研究の紹介の仕方として、このアサヒコム記事の断定的な、単純きわまりない紹介の仕方は如何なものかと思うのだが。
個人的にはこの「言語のモジュール仮説」というのには、もちろん私の場合、専門的に多くを知らず、件の本で知り得た限りの知識で考えているに過ぎないが、非常に強い違和感を覚える。「言語」や「言葉の意味」といった概念的なもの、あるいは心理なものを眼に見える物質であるかのように扱い、盲目的に、例えば中に何が、どんな貴重なもの、あるいは壊れやすいものが入っているかも分からないブラックボックスを、外から無理矢理に切り分けたり、分解したり、くっつけたりしているような印象をうけるのである。
もちろん言葉の上での仮説を作ったうえで実験、研究を進めるのが科学というものの一面だから、それで何か技術的に役立つものや研究方法としても役に立つものが出てくるのであれば、それはそれで有用であり、私たちにとって有難いものである。また実際、科学的に扱おうとすればそういう事にならざるを得ないのかも知れない。そして実用的に一定の成果が上がり、コンピュータサイエンスなどに役立っているのであればそれ自体は重要で有難いものである。また英語学習のように文化的な目的に有用なものもでてくるのであれば、もちろんそれも有益である。しかし、それはあくまでも技術であり、研究方法に過ぎないものであって、真の意味、意義、言葉や人間の理解からはほど遠いものであることを意識すべきであって、とてもそれを確定した真実や事実のように扱う事はできないようなものであると思う。
一方、この研究はMRIを使った脳研究と思われるけれども、fMRIによる研究方法を疑問視するような意見もあることなども取材者は勉強しておくべきだろう。BBCニュースでも、NYタイムズの記事でも、日本でも他の大抵の記事ではこの種の記事には具体的にどのような実験方法使用したのか、たとえばfMRIというその名称くらいには言及されている。少なくともこの記事の書き方はあまりにも簡単で安直すぎる。悪くいえば程度が低いとも言える。
個人的には二つ目の記事、「手を温めるとやさしく親切行動」という方の記事で紹介されている研究の方に興味が持てる。こちらの方はBBCニュースでももう少し詳しく紹介されている。
(08/10/24) Hot drinks promote warm feelings (B)
その実験内容というのは、温かい飲み物などで手を温めた人は、冷たい飲み物などで手を冷やした人に比べて他人を温かい心の人であると判断する傾向が強くなり、他方、自分自身も利他的な行動に向かう傾向が強くなるというもので、純粋に心理学的な実験からそういう結果を出している。
こちらの方は脳科学ではなくアメリカの大学で行われた純然たる心理学的実験研究であるが、脳科学的な裏付けとなるような研究もあるといっている。その研究者はさらに言葉の問題に踏み込み、人の心に対して用いられる「温かい心(warm hearted)」という表現が比喩ではなく、字義通りの、感情の表現なのであるといっている。
「The researchers said the findings suggests that saying that someone is warm is not just a simple metaphor but a literal description of emotions such as trust, first experienced between mother and child during infancy.」
要するに幼児体験から来ているということであるが、これでもって「比喩ではない」と言えるかどうかは微妙な問題のように思われる。しかし、現実に物理的な温かさが人の信じやすさと心の寛大さを促進するのであるとすれば、比喩ではないというのも分かるが、意味論的な研究の課題と言えるのではないか。
また日本のように夏の暑いところの住民としては、この実験がどのような気候の環境で行われたかが気になるところである。というのも米国の比較的寒い地域にある大学での研究だからである。単純に、人は自らがより快適で幸福になった時に、より信じやすく、かつ寛大な気持ちになるという、より一般的な現象の現れに過ぎないのではないかという疑いも起きる。ただし、その場合でも、日本のような夏の暑い国でも心の温かさは依然として「温かい」と表現することから、やはりこの研究には可成りの普遍性がありそうなのは確かだろう。また日本語でも英語でも熱さと温かさ、冷たさと涼しさが別の言葉であるというのも興味深いことだ。こういうことをいろいろと考えてみると、この種の研究はこれから発展性がありそうで面白い。
さらに、この心理学研究を興味深く思ったのは、感覚の一つとしての温度感覚に対して改めて目を向けられたことだ。というのも、温かさ、熱さ、冷たさといった温度感覚は、あまりにも物理的な温度に直結しており、視覚や聴覚と同じ次元での感覚という印象は薄かったように思われる。この研究で改めて温度感覚も視覚や聴覚同様に「感覚」なのだということに気づかされるように思う。
これはまた共感覚の問題にも繋がってくるようでもあり、興味が尽きないものがある。
この記事ではさらに、英国の専門家によるコメントが付されており、「温かい」言葉の効用とか、友情の大切さといった方向にまで議論が及んでいるが、当面それはこれとは別の問題だろう。