ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

「3D」映画と眼の疲労、身体の不調

映画「アバター」のヒットにちなんでNYタイムズに、いわゆる3D映画を見ることによって気分が悪くなる現象についての解説記事が出ていた。簡単で小さな記事だが、幾つかの専門文献がリンクされ、奥が深く難しい問題であることが伺える。眼の疲労だけではなく、頭痛や吐き気や運動障害など、全身の医学的問題に関わってくるようだから生理的な問題と言えるのだろうが、やはり一方で知覚の問題でもある。広い意味で心と身体の問題であり、心と身体の1つの興味深い接点と言えるのかも知れない。
The Claim: 3-D Movies Can Induce Headaches and Sickness

この記事では、障害の基本的な原因とされているのは、両眼の輻輳と遠近の調節との組合せが不自然になるという事のようだ。現実の空間では近距離を見るときには両眼が内側向きに動くと同時に水晶体の形が変わり、近距離に焦点が合う。3D映画の場合はそうはならないことが不自然だということになるのだが、それが具体的にどのように眼の疲労や身体の不調ににつながるのかは、リンクされている文献に詳しいようだが、相当に長い専門的な論文もあるのでそう気軽に取り組む訳にもゆかない。それにしてもNYタイムズの記事ではこういうちょっとした短い記事でもいろいろと専門的なものも専門的でないものも含めて参考文献をリンクしている。こうところは現在のところ、どの日本の新聞サイトにも望めない。マスコミは国の科学技術予算の問題などでは色々と批判を展開するが、マスコミ自身が、自らがもっと日本の科学的知的水準の向上に貢献しようという高邁な意思を持てないものだろうか。予算の問題ではなく、心がけの問題である。科学の物量的、専門的暴走をチェックするような役割をも意識すべきではないか。

蛇足から本題に戻ると、この問題と映画アバターの技術、またこの種の映画技術の問題について、もう少し詳しい解説をしているサイトがこの記事に紹介されている。
film buffs who have sat through

このサイトで述べられている事は、要するに現実の空間では近くを見るときは遠景に焦点が合わず、遠くを見るときは近景に焦点が合わない。だから近くの対象に注目すると左右の視線を中心方向に寄せるので遠景のほうは二重に見える。しかし焦点が合っていないし注視もしていないので気にならない。逆に遠くの対象を注視しているときには近景が二重にみえるが、やはり焦点が合っていないし、注意もしていないので気にならない。それが映画では映像全体が1つの平面上にあるために、どの場所にも焦点が合っていることになる。アバターの監督はそれを解決する手段として、カメラの焦点の合っている距離範囲を非常に狭く取ることにした、ということだそうである。それで、カメラの焦点の合っている部分だけを追っていれば眼がそれ程疲れることはないのだが、見る方にしてみれば見たいところを見る自由が奪われることになる。また映画の手法として焦点をぼかした部分に重要な意味をもたせるような演出も出来ない。しかし、いまのところ、こういう方法しか解決策はないので、仕方が無い、という結論になっている。この手法を使わず、焦点が広い範囲に合っていたとすれば、眼の疲れはさらに激しいものになっている筈だという。だから、監督の意思に従順に従って、焦点の合っている部分だけを追って行けば眼は疲れませんよ、という事なのだが、現実には簡単なことでもなさそうである。焦点の合っている箇所に瞬時に視線を移動しなければならない。また映画の表現としてもかなり不自由で束縛の多いものにならざるを得ないようだ。

NYタイムズの記事ではこのサイト記事の解決策を紹介しながらも、次のように言っている。
「But film buffs who have sat through multiple screenings of “Avatar” say one trick is to avoid looking at unfocused parts of the scenes, which sounds a lot easier than it is.」


以上は映画、映像の問題だが、翻っていわゆる立体視自体の問題、現実の空間における両眼の立体視自体もそう問題が無い訳ではない事が分かる。決して周囲の立体を完全に把握できるわけでもないし、眼が疲れないわけでもない。だいたい、両眼であらゆる周辺の光景を見ること自体、可成り不自然な事でもあると思われる。両眼それぞれで見る異なる光景を重ねて1つの対象として見るには相当な無理があり、神経にも、精神的にも相当な負担がかかっているのではないかと思われる。

個人的に以前から考えていることがある。輻輳と遠近調節の組合せの異常さはもちろんだが、輻輳角度が大きくなること自体 ― これは3D映画ばかりではなく現実生活上の問題だが ― が眼の疲労の大きな原因になるのでは、という事である。近くを見つめてばかりいることで近視になったり眼が疲れることは常識だが、これは焦点をあわせることの問題以上に輻輳の問題が原因で眼の疲労に関わってくるのではないかと思うのだが、以外に問題にされることが少ないのではないかと思う。

眼の疲労一般についての問題はコンピュータやビジュアル機器がますます欠かせなくなる一方の現在、また高齢化の問題にも関わり、3D映画に関係するような問題の枠を超えてますます切実な問題になってきているし、関心を持たれる問題だが、その対策はあまり進展していないように思われる。研究自体はどの程度進んでいるのか、誰でも関心をもっているものと思われるけれども、素人の納得ゆく説明に遭遇することが少ない。それだけ難しく困難な問題なのだろう。


もうひとつ、言葉の問題に傾くが、3Dという表現が気になる。このアバターという映画も、英語でも日本語でも「3D映画」という、簡潔かつ大ざっぱな表現で呼ばれている。従来、この種の映画は立体映画とか立体映像とか言われていた。立体は英語ではステレオだから英語でもstereoと呼ばれていたものと思われる。ステレオと3D、すなわち「三次元」とは厳密には意味が異なるのではないだろうか。専門ではないので確信があるわけではないが、もともと3Dという言い方はコンピュータグラフィックスが誕生してから使われるようになった表現ではないだろうか。CGという情報技術の基礎の上で三次元的な情報を持った映像という意味で使われだしたのではないかと思う。それに対して立体、またはステレオ映像は左右両眼で奥行きのある映像を知覚することだった。言うまでもなく聴覚の場合にも、今も普通に使われているが、聴覚の場合と視覚の場合とを同じメカニズムで比較することは出来ないだろう。共通するのはただ一定の距離を置いた2点に位置する一対の感覚器官で知覚するということだけである。簡単にいえば3Dは情報の問題、ステレオは認識、知覚の問題といえるのではないだろうか。アバターにもCGが使われているようだから、その意味で3D映画というように受取れるが、単に三次元CGを使うだけなら今では映画、テレビ、あるいは個人のPCと、ありとあらゆるところで使われている。という事で、今回のアバターなども3D映画というよりも立体映画でいいのではないかと、個人的には思っている。

もちろん、2枚の立体写真から三次元情報をとりだすようなコンピュータ技術もあるわけだから、関係があることには違いがない。しかしそれには人為的なプログラムが関わっている筈であるし、単純に二次元情報を三次元情報に変換できるというようなものとは思われない。こう考えてくると単眼の映像が平面で両眼の映像が立体であるというような問題ではない事が分かる。単眼の映像自体すでに立体的であると考えるべきであるし、両眼の映像で完全に立体的な把握が出来るというものでもないと考えるほうが生産的ではないかと思えるのである。