ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

疑似科学論、ニセ科学論 ― 歴史や言説が科学でなければならないという強迫観念の産物

別のブログ『「意味」の周辺』に書いた記事[http://imimemo.blogspot.com/2013/01/blog-post.html:title=岡潔の科学館とゲーテの言葉 ― 科学と人間的なもの ― 科学と陰謀
』]の内容が本ブログのカテゴリーと重なりますので、一部分を表題を変えて転載します。全文は前記サイトにあります。



― 前略―

というのも昨今はどのような分野においてもことさら科学性が強調される傾向が強いからである。自然科学を基礎とする、あるいはそれを手段として用いる工学や医学のみならず、社会科学や人文科学をも科学でなければならない、科学にしなければならない、自然科学と同一の基礎を持たなければならない、といった強迫観念のような考え方が正当であるかのような論調が多いからである


かつて若いころ、私自身もそのような強迫観念のようなものを持っていた。特に歴史、歴史学に対してそのような考えを持っていた。しかし今ではそのような強迫観念こそが有害なものだと思っている。歴史は歴史、歴史学はあくまで歴史学であって、自然科学と同じ意味での科学ではありえない。科学にもいろいろな定義の仕方があり、定義によっては科学と言えるかもしれないが、少なくとも自然科学と同じ意味での科学ではありえない。そもそも同じ自然科学であっても物理学と生物学あるいは地球科学とが、同一の基礎のうえに立っているとは言えない。


科学ではあり得ないもの、科学になりえないものを科学でなければならない、自然科学と同様の形式を持たねばらならない、同様の条件を満たさなければならない、という無理に科学であるかのように、科学の外観を与えようとするとどこかに無理がかかり、いびつなものが出来上がるのではないかと思われる。そういうものを疑似科学と呼ぶことはできるかもしれない。しかし、言葉の次元でもゲーテが言うように完全な科学というもの、純粋な科学というものは殆どあり得ないもの、いわば理念的なものであるとすれば、事実上あらゆる科学は疑似科学であるということになってしまう。ただ、程度や方式の問題になってしまうのである。


例えば当ブログの以前の記事で取り上げた梅棹忠雄の「文明の生態史観」によれば、著者は、「生態史観は単なる知的好奇心の産物であって現状の価値評価でも現状変革の指針でもない。そのような「べき」、当為の立場に立たなかったからこそ、生態史観のようなものができたと考えている。」と述べている。


梅棹忠雄のいう「純粋な知的好奇心の産物」は科学ないし自然科学とはまた別、というよりももっと幅広いものを指していると思われる。


「べき」、当為の要素を取り除くことは人間的な要素を取り除くという点で科学に近づいたものになるとはいえるかもしれないが、しかしそれで文明の生態史観が、自然科学と同じ基準で科学であるとは言えないし、梅棹忠雄自身もそこまで科学そのものであるとは考えていなかったのではないかと思う。文明という概念自体が科学とは相容れないものだからである。そのモデルである生物学的生態学にしても、また生物学全般にしてもそうである。これは、生物学が化学と物理学に還元されるとかされないとかいった議論とは異なる。化学や物理学自体にしてからが言葉なくして成立しないもので、完全に人間的なものから解放され得ないともいえる。


もちろん、歴史につきものである過去や現在の事実検証、未来の予測において科学的な手法を用いなければならないし、その限りで科学的な概念と手法に従わなければならない。しかし歴史あるいは歴史学そのものが科学になることは永遠にあり得ない。歴史の真実と科学的真実とは全く別物であるからである。


歴史も、科学も、言葉を用いる。しかし歴史の言葉から人間性を排除することはできないのに対して、科学の言葉からは可能な限り人間性を捨象しなければならないのである。


― 中略 ―


純然たる自然科学である地球科学上の問題である「地球温暖化懐疑論」が科学ではないとか、「疑似科学である」とか、主張する人がいる。これには逆の立場もある。CO2温暖化説そのものが科学ではないとか、疑似科学であるとかの主張である。どちらかと言えば、というか程度の問題からいえば、後者の方に正当性があると思うが、こういう正反対の主張が出てくること自体がこういった議論の無意味さを表しているのではないかと思われる。。


地球科学は工学とはまた異なった意味で、物理学や化学とは異なっている。地球科学あるいは地質学、ジオロジーは究極的には地史、すなわち地球の歴史となるべきだという考え方がある。とすれば、人間の歴史、民族や国家や人類の歴史と同様、歴史であるとすれば、人間的なものが相当に入ってくるはずのものであって、可能な限り人間的なものを排除してゆくべき、純粋性を追求すべき科学の分野ではないと思われるのである。


しかしCO2温暖化説を含んだ地球温暖化に関する議論は、この問題自体はCO2という化学物質、太陽活動を含めたエネルギー、そして物理的な時間といった物理と化学の量にすべてが還元される問題である。たとえ人間活動が入っていても、この問題に関する限り人間活動も生物の活動も完全に化学物質と物理量に還元されるのである。それを歴史的に扱うのが地球化学なのである。地球化学的に合理的に説明されているかどうかを判定することがすべてであり、疑似科学であるとかニセ科学であるとかの議論は何の意味も必要性もないのである。


― 全文は前記サイトにあります。