シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)
「意味するもの」と「意味されるもの」という表現についてはこの鏡像の意味論シリーズでも使用したことがあります。しかし、このこれらの表現については、私はこの方面で専門的に詳しいわけでは全くありませんが、シニフィアン(signifier)とシニフィエ(signified)という公認の術語がある以上、この言語学の専門的な術語を使った方がむしろ分かりやすく、インパクトもあるように思います。
シニフィアンとシニフィエとの関係は、上下前後左右という言葉たちを理解する鍵になると思います。
例えばリンゴという単語はたいていはリンゴの果実を表しますが、リンゴの木を表す場合もあり、象徴的に、また比ゆ的にも様々な意味で用いられます。しかしリンゴの場合は殆どの場合、文脈で何を意味しているかはすぐに分かるものです。ですから日常的にはいちいちリンゴという言葉が何を意味しているのかを考える必要などありません。しかし上下前後左右はそういう訳にはゆかないもので、日常的にもしばしば混乱が生じることもあります。人間だけをとってみても、上は普通、頭頂部を意味しますが、逆立ちをしている人の場合、「上」が足の下を意味することもありもます。また、いま私が使っているキーボードでは数字は1から0に至るまで左から右へと並んでいます。アルファベットではQが左端にありPが右端にあります。「右」の辞書的な定義は、ヒトが北を向いたときの東側ということですが、キーボードの前側を北に向けると、Qは東側にあり、ヒトが北を向いた時の右側に相当します。Qは本来キーボードの左側にあったので、ヒトにおける左右の定義とは逆ということになります。このように左右の場合、シニフィアンとシニフィエとの関係が対象により逆転する場合が生じます。これは左右に限ったことではありません。キーボードを裏返して前側を北に向ければヒトの場合と同様に東側が右側に一致しますが、当然、上と下の関係が逆転することになります。同様に、ヒトの上下は頭や身体の各部で表現されるにしても植物の場合はそうは行きません。第一、植物には上下はあっても左右や前後はないのが普通です。
このように一見、左右だけが特別に思われがちですが、上下、前後、左右はすべてこの点では同じことです。マッハが「左右も上下や前後と同様に異方的である」と考えたのもそういうことだと思います。
ここで、例として「上」だけをとって考えてみますが、あらゆる物、あらゆる場合に共通する 「上」の概念、あるいは何故にヒトの頭の方向や植物が成長する方向に「上」という言葉が用いられるのかを考えてみる必要が当然のこととして生じます。それは、つまるところ視空間における「上」が根本的な基準ではないかというのが私の考えです ―― 視覚に関係する限り ――。天と地、あるいは地上という環境が本来の上下の基準なのではないか?という反論が呈されるかもしれません。しかし真に客観的に、この場合は物理的に考えてみると、天の方向は地球の裏側では逆になるはずです。天地、あるいは地上環境という概念自体が物理的なものではなく、ヒトという個人ではないにしても人間一般に共通する主観的な空間が起源であるとものと考えられます。
こうしてみるとヒトの知覚空間、この場合視空間はシニフィエで満たされた空間であるというができ、 つまるところ「意味されるもの」、簡単に言って「意味」そのもので満たされた空間であり、その中で方向を表す上下前後左右のそれぞれが異なった意味を持つ以上、あらゆる方向と位置で異なる意味を持つ空間であると言え、視空間は「異方的」であるということができるのだと思います。