ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

自然と闘う;自然を保護する;自然に優しい;自然を敬う。

温暖化問題や野生動植物の問題に関する記事、特に最近の英米の記事で特に目に付くようになった表現は「温暖化との闘い」という表現である。温暖化自体は、その原因はともあれ、自然現象であり、温暖化との闘いはすなわち自然との闘いということになる。しかし自然環境に対してはそれを保護する、護るという考えが本来の環境主義のあり方であったような印象がある。結局これを矛盾がないように説明しょうとすれば、環境主義における自然とは動植物を含めて現状の自然を維持しなければならないものであるという考えであり、それを変化させるものとは闘わなければならないということであろうか。一部では現在の自然を保存することだけではなく過去の動植物を復活させることまで目論まれている。

しかし、変化することも自然本来の姿である。現在の自然を保全するために、変化しようとする自然自体と闘わなければならないということは、結局は人間中心主義であることを免れない。温暖化の原因をどちらかといえば人間の行為によるものと見なす傾向は、この矛盾から逃れるための理論的な操作と見ることも出来ない訳ではない。温暖化の原因が人間の行為であるのなら、温暖化と闘うことは、そういった人間自身の行為との闘いということになり、それは自然を保護するという思想と矛盾することにならないからである。もちろんそれが現実に即しているかどうかは別問題である。

一方、「自然を敬う」という思想、態度がある。自然についてはそれを敬うも敬わないも無い、そういうことはナンセンスだと考える立場もあろうけれども、実のところ環境主義も含め、多くの人は自らを自然を敬うものでありたいと思っている、あるいはそのように思われたいのではないだろうか。このあたりは宗教的な伝統にも関わることでもあろう。しかし、自然を敬うという言葉の前には大抵の人は意義を唱えることはしないだろう。しかし自然を敬うということは具体的にはどのような態度なのか、どのようにすることなのか、ということになれば、それはもう様々に意見が分かれることにもなる。自然を敬うということは科学の研究とはもう全くかけ離れた心の問題であろう。しかしそれは闘うということも、保護、護るという態度も同様に心の問題である。自然を敬うという態度とは一体どういうことなのか、落ち着いて考え、必用なら色々精神面の多方面な研究も必要になるのではないだろうか。