ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

ニセ科学、疑似科学論議よりも具体的な批判を

毎日新聞の連載「理系白書」で2回、上下にわたり「理系白書’07:第1部・科学と非科学 私の提言」において池内了・総合研究大学院大教授と左巻健男同志社女子大教授の提言が紹介されている。
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/kagaku/news/20070314ddm016070032000c.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/kagaku/news/20070321ddm016070120000c.html

池内教授の方は具体例を出していないが、「疑似科学ビジネス」という言葉とダイエットへの言及から、最近の納豆ダイエットの捏造番組を念頭においてのように思われ、疑うことの重要性を説いている。一方の左巻教授の方は「水からの伝言」を例にあげ、科学リテラシー教育の必要性を説いている。

各々の記事で挙げられている例はかなり性質の異なったものだと思う。しかし同じニセ科学というカテゴリーのもとで取上げられ議論されており、それぞれの記事でも他の具体例はいっさい挙げられていない。私はこの種の論議は個々の具体例で具体的にどこに問題があるかを指摘するより他はないので、「ニセ科学」といったカテゴリーで一括して批判するのは粗雑な議論になりがちだと思う。

大体「科学」とは何か定義することほど難しい事も少ないと思う。実際のところ、「科学」という一つの言葉は様々なシチュエーションで、様々に異なった範疇のなかで様々な意味を持たされて使われている。厳密な、それこそ本当に科学的な議論、また倫理的な、法律的な議論の中では科学という概念を使用することはむしろ避けられているのではないだろうか。ノーベル賞候補学者の論文捏造が発覚した時、彼は論文捏造のかどで批判され断罪されたが、それが非科学であるとかニセ科学であるといった理由で批判を受けたわけではない。なかにはそのように発言した人もいたかもしれないが。

池内教授は記事の中で「多くの科学者は、いかがわしさを証明することを面倒がり、声を出してこなかった」といっておられるが、実際個々のケースで具体的に問題点を指摘するより他はないのだと思う。捏造があるのならそれを指摘すればよく、事実に反する言説にはその証拠を示し、現在認められている科学理論に反するのならそのように指摘すればよいので、その科学理論自体の理解を得るのが難しい場合があって理解されないとしても、それは仕方のないことである。

例として精神分析の問題が参考になると思われる。精神分析が科学であるとか科学でないとかいう議論は自然科学者の間で、日本でも外国でも以前からあった。現在までもそういう議論は続いているように思われる。現にこのブログでも取上げたニューヨークタイムズの関連記事がある。
(07/02/06) In Rigorous Test, Talk Therapy Works for Panic Disorder
http://www.nytimes.com/2007/02/06/health/psychology/06pani.html

筆者自身、これまで色々と影響されて精神分析は科学ではないと思ったり、いや、そうではないと思い直したりした経験がある。今は、科学的であるか科学的でないかという議論も必要かもしれないが、それよりも技術として有効かどうかが重要であり、さらにそれがどこまで真実に迫っているか、多面的に判断するより他はないと思っている。いずれにしても今まで精神分析自体が科学的でないからという理由で科学者から告発されたことはないし、そういう告発があったとしても受入れられるとも思えない。また、精神分析が精神医学の他の分野或いは治療法とどのように違っているのか、明確な境界といったものがあるのかどうかも簡単な問題ではなさそうである。

要するに完全な科学とか非科学といったものはないという言い方もできる。科学と非科学との間には科学性と非科学性とを様々な度合いで含んだゾーンがあるといった表現も出来るかもしれない。ただこのような表現は図式的であり、固定化して使われると問題がある。「ニセ科学」とか「疑似科学」といった、明確に定義された概念があると思わせるような言葉はそれ以上に問題が大きい。

もちろん何でも「疑ってみる」姿勢も必用であろうし、「科学リテラシー」或いは科学的常識を身につけることの必要性を否定することもない。ただ個々の「疑わしい」あるいは「科学とは思えない」ような言説を批判する際には問題点を具体的に指摘することなくニセ科学とか疑似科学とかいったレッテル貼りで済ませるようなことは避けて貰いたいし、科学的とか非科学的だとかいう場合も具体的な問題点の指摘を行った上でそれを非科学的と考えるのであればそのように主張すればすむことであると思う。大切なのは捏造といった倫理的な問題がないかどうか、どれだけ真理、真実といった近づきがたいものに迫っているかということで、科学かニセ科学かという問題ではない。もちろん、より科学的であることによって、より真実に迫っているのであればそれは結構なことである。