ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

科学と生物学、エコロジー、環境科学、政治、そしてイデオロギー

このブログの記事で今までのところ最も多くアクセスされた記事は3月24日付けの記事で、「ニセ科学疑似科学」に関するものだった。この問題に対する基本的な考えは今も変わっていない。科学という、それ自体の定義が不可能ではないものの定義の方法に多様なアプローチがあり、様々な局面をもつものにニセとか擬似といったう修飾をつけて一つのカテゴリーとして扱うことは、往々にして議論を紛糾させるだけであって、人々が新しい発見を発見すること、新しい地平に導かれることを妨げるものだと思う。

ニセ科学疑似科学」の判定基準として、その「方法」と「表現」に事実誤認、約束違反、誤り、欺瞞、捏造等があることが挙げられる場合が一方にある。そういったケースでは欺瞞や捏造そのものを暴き、批判すればよいのであって、ニセ科学とか疑似科学などとカテゴライズする必用まではない筈である。科学は本来それが科学であるという事ゆえに価値があるというわけでもなく、科学である事自体を目的としているわけではないのであって、骨董品のようにそれが本物であるゆえに価値があるといったものではないと思うのである。

とはいえ、多くのひとは科学とは何か、という問題、言い換えれば科学の定義を考え続けている。現在までに発達してきた科学、近代科学、現在の科学というものを理解し、考える上で、科学とは言い難いものの、科学であるように見えるものなどをそういった言葉でカテゴライズする必用もあるかもしれない。しかし科学と、科学とは言い難いものの区別、関わり、を様々な面から考えるようになれば、「ニセ科学」という表現も、「疑似科学」という概念も適当な言葉とは言えないだろうと思われる。

科学と切り離す事の出来ないもので、一応科学とは区別されている科学技術の問題はこの際措いておくとして、また医学の問題も措いておくとして、「科学とは言い難いもの」の多くは大抵生物、人間、あるいは生命がからんでいる。科学と切り離す事の出来ない「技術」は応用科学などと呼ばれることがあっても一応は科学とは区別されている。技術の問題とは別に、人間の活動そのものであって近代自然科学の中でも重要で大きな位置を占めている生物学は常に、「科学とは言い難いもの」との関わりの中で揺れている。

15日付のアサヒコムの記事、「小笠原の無人島、クマネズミ「根絶」に成功」
http://www.asahi.com/science/update/0915/TKY200709150038.html
では見出しのとおり、小笠原の無人島でネズミの一種を根絶した事が科学蘭で取上げられている。興味深いのは根絶と言う言葉が括弧つきで「根絶」とかかれている点だ。アサヒコムの科学記事ではこれまで往々にして――筆者個人の見方であるけれども――的確とは思えない見出し表現があったり、不適切な造語が多かったように思うが、今回のケースでは逆に、記者が取材した科学者あるいは当局の表現に保留をつけたような形になっている。

確かにここで「絶滅」とか「消滅」といった言葉ではなく「根絶」という言葉が使われているのには意味慎重なものがある。記事に拠ればこの無人島でネズミを根絶したのはもちろん無人島だから農作物を守る必用のある農林業者ではなく、森林総合研究所と自然環境センターという、科学者組織であって、その目的は一言でいえばその島の生態系を守る事、維持することであるといえる。また小さな無人島で行ったモデル実験ともいえるようなものでもあるらしい。

こういう事例を見ると、あるいは見るまでもないかもしれないが、生態学またはエコロジーと環境科学は科学であるだけではなく政治でもあることは明白である。環境省などの行政機関の仕事と言う意味だけではなく、エコロジーや環境科学という科学の分野自体が政治的なものであるといえる。また、あるいはイデオロギーと見る見方もある。環境主義とか環境主義者、environmentalism,envioronmentalistという表現はニューヨークタイムズ紙ではかなり頻繁に見られる表現だ。アメリカでは環境主義活動が盛んであると同時に、それにたいする批判派の活動も盛んなようである。

人間のとった対策の方向性としては逆になるが、ちょっと似たケースで次のような記事があった。

(07/08/31) Texan spiders spin 'monster web' (B)
(07/08/31) Got Arachnophobia? Here’s Your Worst Nighmare (N)
アメリカ、北テキサスの自然公園で樫の木の森林が何エーカーにもわたって蜘蛛の巣で覆い尽くされたというニュース。ニューヨークタイムズの見出しの通り、多くの蜘蛛恐怖症者にとって、これは悪夢以外の何者でもないだろう。ところが公園管理責任者のDonna Gardeさんはこれを美しいと考え、保存する事にした。BBCニュースの記事に拠れば世界中からクモの学者を呼ぶ考えだ。それに対して最初にこれを発見した公園作業員のFreddie Gowin さんは少しも美しいとは思わず、巣の一部を刈り取っていた。美学上の問題にまで関わってきそうだが、少なくとも都市の公園なら、保存する事は考えられないだろう。専門のクモ学者にとっては貴重な研究材料であるから実害が無い以上は保存して貰いたいのは当然である。第一、クモは益虫ということになっている。

ちなみに、クモに関しては結構ニュース記事が多い。
(07/07/24) In Spiders, at Least, Brain Size Doesn’t Appear to Affect Behavior (N) http://www.nytimes.com/2007/07/24/science/24obse1.html
といった脳の研究に関わるようなものから、メクラグモという聞いたことのなかったクモで大陸移動の研究を行っているといった風に多彩である。またクモではないがヤモリの吸着力の研究から発明された粘着材で「スパイダーマン」が可能になるか、といったようなものもある。

ところで、私はもちろん生物学専門家ではないから、アカデミックな、大学などで生物学の一分野として研究されている生態学というものの実態は、よく分らない。多くの一般人にとってもそうだと思う。現実には生物学の多くの分野の横断的な集積のようなものになるのかも知れない。しかしニュースに現れてくるような報告としては、多くの場合は絶滅危惧種を救う運動となって現れてきて、多くの人も参加する運動となり、グリーンピースが一大政治勢力となって既に久しいともいえる。グリーンピースはヨーロッパの一部の文化の影響が強いように言われているが、一応は国際勢力なのだろう。他方各国でのこの種の動きにはナショナリズムも入って来ざるを得ないのだろう。日本でも外国でも、外来種による在来種の圧迫には敏感である。結果的には防ぎようがなく、失敗に終わることも多いかも知れないが、どの国でも外来種に侵食されることは悔しがるのだ。イギリスでは在来のザリガニがアメリカザリガニの持ち込んだ菌で冒されることを心配している。
http://news.bbc.co.uk/2/shared/spl/hi/pop_ups/07/sci_nat_enl_1189446496/html/1.stm

結局のところ環境主義にとっては世界とあらゆる地域で、現状の生態系のバランスを保存することが至上命令のようになる。しかし一方で工業化と自然破壊が進むし、人為選択による品種改良のみならず、遺伝子操作による品種改良までが行われるようになる。こういう矛盾は生物学の技術的な面と思想的な面との対立といえるのだろうか。それ以外に自然そのものの変化もあるはずだが、気候に関する限りは現在のところ、政治的に現れる部分では目がつむられている。

また環境主義では現状維持が至上命令のように見えるのだけれども、一方で進化の研究も盛んだ。日本のサイトではあまり報道されていないけれども、ネアンデルタール人に関する新研究が以前にも、つい最近にもでている。ネアンデルタール人は寒冷気候で絶滅したわけではなく、その後も生存し続けていたということである。
(07/19/13) Neanderthal climate link debated (B)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6992721.stm
こういう原人の歴史とか現在の類人猿の進化、ゴリラの絶滅を心配する声、等々、矛盾に満ち満ちたともいえる、気になる話に事欠くことがない。