ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

二つの「心理学的」問題の記事 ― 鏡像問題と教育問題。共に毎日jpの科学欄。一つはアサヒコムにも。

最近二つの、心理学的とも、言葉の問題とも思われる興味深い記事。日付の新しい方から、
(07/12/09) 鏡の中:左右逆転の謎 古くはプラトンを悩ませ…「物理」「心理」で今も熱い論争 (m) http://mainichi.jp/select/science/news/20071209ddm016040025000c.html
(07/11/28) 理科・特定課題調査:20+100=? 「質量保存の法則」中学生が小学生に負けた(m) http://mainichi.jp/select/science/news/20071128ddm012100108000c.html


二つの「心理学的」問題の記事 ― 鏡像問題と教育問題。共に毎日jpの科学欄一つはアサヒコムにも。

最近二つの、心理学的とも、言葉の問題とも思われる興味深い記事。日付の新しい方から、
(07/12/09) 鏡の中:左右逆転の謎 古くはプラトンを悩ませ…「物理」「心理」で今も熱い論争 (m) http://mainichi.jp/select/science/news/20071209ddm016040025000c.html
(07/11/28) 理科・特定課題調査:20+100=? 「質量保存の法則」中学生が小学生に負けた(m) http://mainichi.jp/select/science/news/20071128ddm012100108000c.html

鏡像問題の方は、始めはこの記事を見て以外に思った。そんなに難しい問題だったのかと。読んでから思い起こしてみると、確かに自分でも過去にこの問題を考えた事があったが、そのときは解決できたと思っていたし、学会で論争が続いている問題だったとは思わなかった。

この記事によると、問題は物理学的考察と心理学的考察とのどちらにウェイトを置くべきかということらしい。また多方面からの見方が紹介されている。過去に自分が考えた事を思い出し、もう一度考え直し、更にもう一度この記事を読んでみると、私が考えた事は、ここで紹介されている「言語習慣説」に近いのかもしれないと思った。それはこうである。

物理的な説明はこの記事にも多幡達夫・大阪府立大名誉教授の説明として載せられている。要するに空間を決める3本の直交座標を上下、奥行き、左右の三つに取った場合、鏡像と原像では三つのうちの一つだけが方向が逆になるという事にある。これを違った表現で言い換えてみると、次のように言うことが出来ると思う。鏡像を回転させて原像と比較してみる場合、上下軸を回転させて原像と比較すると、左右が逆になる。一方、左右の軸を回転させて比較すると上下が逆になる。鏡像を回転させずにそのまま比較すると、奥行き、すなわち前後が逆向きになっているという説明ができる。

ここまでは物理的な説明だといえるが、人は普通、原像を上下軸を中心に回転させて、すなわち、上下方向と前後方向を原像にあわせて比較し、その結果、左右が反転していると認識する。ここでこの問題は、なぜそのようにして比較するのか、という問題に移行し、ここから先は心理学的な問題に移行するといえる。鏡像をどのように動かして比較するかというのは物理的には任意の筈だからである。

最も単純に比較するなら鏡像を動かさずにそのまま比較すればよい。そうすると前後が逆になる。しかし人は普通そういう比較をしない。左右が反転しているという事は気づいてみると気味が悪いが、前後が反転している事はもっと気味が悪い。上下が反転しているというのは気味が悪いというよりも、直感的にはまず、思いつかない。

要するにこれは上下、前後、左右という方向の持つ意味、言葉の意味論的な問題ではないかと思う。その意味で詳しい内容は分からないが、「言語習慣説」というのは興味深く思われた。


常識的に考えれば人間にとって上下という対立関係と前後という対立関係は左右という対立関係に比べてより重要で基本的な感覚であるとはいえると思う。絵でも文字でも左右を逆にしても一応はそれと認識できるし、全く気づかない場合もある。それに対して上下を反対にすれば違いに気づかない人はいないし、同じものと認識する事もできない場合が多い。

上下とは一体何なのか、前後関係とは何なのか、もちろん左右とは何なのかいう問題と不可分だろうけれども、これは意味の問題として最大の謎の一つではないだろうか。



もう一つの記事、日付の古いほうの記事は理科の学力試験問題で中学生の能力が小学生よりも平均して低かったという記事である。

これは理科系の思考能力と文科系の思考能力との違いという面でも、思考力、学力全体の発達という面でも、非常に興味深い現象だと思われた。

ただ、最初この記事を見てから、何度か繰り返して考える機会があったが、この記事に取上げらているように本当に理解が進んでいない、あるいは能力が低下していると見るべきかどうかに関しては異なった見方も出来るように思われてきた。

まず、現実にこの時期の小学生と中学生に対して具体的に理科の問題をどのように教えているかがわからない事にはこの試験結果に対して適切な見方はできないという面もある。

毎日の記事で取上げられていたのは質量保存の法則がテーマの問題で、具体的には、水に塩を溶かした場合に食塩水の重量はどうなるかという問題である。この問題を改めてよく考えてみると、質量保存の法則というのは経験則であることを理解させるという視点が、教える側の方に欠けているのではないかということに気づいた。

現在の物理学では、質量保存の法則は近似的なものであって、質量はエネルギーに転換するという事が常識になっている。またエネルギー保存の法則も経験則である。厳密には食塩が水に溶けて熱の出入りが少しでもあれば、質量にも変化がある筈である。もちろんグラム単位でそのようなことを言うのはナンセンスであり、小学生、中学生にそのような理論を教えるのは現実的ではないように思われる。他方、小学生、中学生を対象とする理科は技術教育ではない筈である。この場合技術的な問題として教えるなら、実用的な近似値を出せば問題ないであろうが、自然現象に対するものの考え方、科学的な思考力を問題にするのであれば、質量保存法則は経験則であって、数学の公理のようなものではないことをも理解させるのがより高度な教育というものだろう。数学と物理学とは別物であるという事は早くから理解しておくほうがその後の教育上も良いのではないかと、個人的な経験からも、思うのである。

という訳で、こういう問題は本来、実験を通じて理解する問題である。小学校では実験を行っていて、小学生のほうが記憶に新しいから正解率が高いとい可能性もある。記事を見ると誤った回答の誤った推論が幾つか紹介されているが、この場合のように正解が確定している問題で、間違った推論を批判することは簡単である。しかし結果的に推論が誤っていたからといって、直ちに思考力の欠如ということも出来ないと思われる。正解を記憶していることも学力であり、推論の能力も学力であるが、推論の能力を評価するという事は容易な事ではないという事が分かる。この問題は難しすぎるともいえる。


とはいえ、この場合実験をし、食塩溶液の重量を測ってみればここでの正解の通りになる事は明らかであるし、あくまでこの正解が正しく、その正解にたどり着けなかった事に一定の問題があることは認めなければならず、この点で中学生の平均が小学生の平均に対して劣っていたとすれば、それは問題だという事になるだろう。しかしこの問題を何とか対策を講じなければならない教育問題としてよりも、むしろ、子供の成長過程における心理学的な現象として、純粋な観察の対象として考えてみるのも興味深いのではないかと思われる。

こういう問題になると多くの人は自らの小中学生の頃を多少とも思い起こすのではないだろうか。一般に中学生になる頃というのは、自然よりも芸術や文学に対する興味が目覚めてくる頃でもある。他方、社会への適応という面でも小学生に比べて切実な対応を迫られるようになる。そんな中で学習においても目的意識や専門意識、得意科目不得意科目の分化、といったものが芽生えてくる。勉強の仕方においても要領の良さが求められるようになる。要領よく効率的に学習するには何でも自分の頭で考えている訳にも行かない。そういう時期、一時的に学力試験の平均が低下するという事は避けられない面もあるのではないか、という見方もできない訳ではない。

いずれにしても、興味、関心こそが科学的な思考能力にとっても最大の推進力である事は間違いのないことだと思う。ただ、これが実用、実利、効率性、経済性にそのまま結びつくかといえば、必ずしもそうはならない事が、残念無念なことである。