ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

共感覚と意味、クオリア、そして科学史と

今月初め頃になるが、BBC科学ニュースに次の様な発見の記事があった。
(08/08/07) 'Can anyone hear that picture?' (B)

これは新しいタイプの共感覚が発見されたという報告で、具体的にはスクリーンセーバーの動的なパターンを見て音を聞き取る事ができる人たちが発見されたという報告がされている。

この記事によれば、共感覚の最も一般的な形式は「数」や文字から色を知覚するという形式だと言われている。

また、ちょうどこのブログを始めた一昨年の暮れの記事で軽く触れた次のNYタイムズのの記事にも珍しい共感覚が報告されていたのを思い出す。
(06/11/23) For Rare Few, Taste Is in the Ear of the Beholder (N)

これは一面、今回のBBCの記事以上に面白い共感覚の報告で、料理の名前を聞くだけで味を感じる人たちの話だった。

改めてこういう記事を見て思うのだが、共感覚というと聴覚と視覚との関係といった各種感覚そのもの同士の関係という印象を受けるが、実際の共感覚というのは単なる感覚種の関係というよりも言葉の、あるいは言葉以外の「意味」に深く関わっていることが分かる。料理の名前で味覚を感じるなど、聴覚と味覚の関係と言うよりも、言葉の意味と味覚の関係になるからだ。

今回のBBCの記事ではスクリーンセーバーの動的なパターンから音を感じるという事で、スクリーンセーバーという比較的新しいメディアの普及が関係していることは明らかだ。これを見て思い出すのは、例えば「メディアプレイヤー」などのPC上のプレヤーなどの付属機能にある、音楽の信号を面白いパターンに置き換えるような映像である。ああいうものを見ても元の音楽を感じ取る人はいないだろう。レコードの溝をみて音楽を聴き取ることができないのと同様にそうだ。そういう事を考えてみると、共感覚というものはそもそもの初めから物理的現象、物理的説明を超えたところにある現象という気がする。

そこで思い出されるのは、個人的には昨年頃に覚えたばかりのクオリアという言葉である。そのあたりの個人的な経緯は別のブログ「意味の周辺」に綴っている。http://imimemo.blogspot.com/2008/05/blog-post.html

脳科学クオリアを問題にすることに関しては色々な批判があるようだ。私自身、脳科学はもちろん、心理学も、哲学も素人にすぎないが、クオリア脳科学で扱い、特に「脳がクオリアを作り出す」とか「物理現象からクオリアが発生」するといった議論には抵抗を感じるし、そのような想定はとんでもない飛躍だと思うが、クオリアという言葉自体は便利な言葉だと思う。とくにこのような共感覚の様な現象を考えるには便利な言葉であると思う。BBCニュースでもNYタイムズの記事でもクオリアというような言葉は使われてはいないが、共感覚を考えるには便利な言葉ではないかと思う。少なくともクオリアという言葉、クオリアそのものを否定することはナンセンスだと思う。

クオリアそのもの、クオリアという言葉の使用に対する批判で目に付くのはクオリアというものは形而上学的な概念で意味のないものであり、科学的には取り上げるに値しないものであるという議論である(注)。形而上学というものに対する考え方の議論になってしまうとちょっと困ってしまうが、少なくとも形而上学ではない日常の言葉、あるいは概念、芸術文化上の重要な概念でクオリアに相当するものを否定するのはナンセンスであり、自己欺瞞であると言うものだろう。本来、色々な感覚を表す言葉、色、音、味、触覚等々、すべて物理現象でも生理現象でもなく、むしろクオリアを表現していたものと言って良いのだから。であるからこそ、わざわざクオリアなどという言葉を使う必要はないという議論も起きるし、それにも一理はあると思うのだが、クオリアという新しい言葉によって過去の科学史上の問題や現在の科学上の微妙な領域である芸術科学のような領域に有益な言葉を提供する事になるのではないかと思うのである。例えば例えば、科学史では有名なゲーテによるニュートン色彩学批判とか、それ以来の近代科学について考えること自体にも有益な言葉になるのではないかと思う。また芸術科学的なものとして心理的色彩学や音楽理論や絵画理論など。

このように、クオリアを科学的に取り扱えないから無意味でナンセンスであるとするよりも、むしろ、現在の自然科学の限界を示すものの1つと考えるべきではないかと思うのものである。もちろん一方でクオリアを短絡的に物理現象や生理現象などと想定するのが変だと思うのも、繰り返しになるが、もちろんである。


(注)例えばこのサイトのサイドバーからもリンクしている、専門的視点と、その他の参考になる内容にも富んだ下記2つのサイトなど。
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20071114/p1』(2008/03/13 00:29)
http://a.hatena.ne.jp/go?http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/