ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

鏡像問題(3回目) ― 鏡像問題からクオリアへ

(この記事は最近のニュース記事に即した記述をするという趣旨からは若干ずれており、本来、以前の記事に対する自己コメントとして綴るべき内容かも知れませんが、前々回、前回と、クオリアについて触れたこともあってその続きとしてあえてここに掲載します。)

2007年12月17日と翌日の18日の記事は、毎日新聞サイト科学欄で紹介された鏡像問題の記事に触発されて書いた。その記事、特に翌日の記事には当初から比較的アクセスが多く、現在に至ってグーグルの検索キーワード「鏡像問題」のトップに可成り近いところからもリンクされている事で、最近になって少々責任めいたものを感じ、もう一度振り返って検討してみた。もとより、このブログの他の記事と同様、専門家としての論評などではなく、また「奥が深い」難問といわれるこの問題で、その研究史について知識があったわけでは全く無く、もちろん心理学の専門家でもなく、また毎日新聞記事の契機となった高野教授の論文も、記事で紹介されている多幡教授その他の専門家の著書なども調べたわけでもなく、ただ、この問題が上下、前後、左右という言葉の意味に深く関わる問題であり、「科学と言葉」をテーマとする、このブログにとっても見逃せない問題であると思い、その限りで当時考えたことを書いただけだったからである。新聞記事に紹介されていた「言語習慣説」という学説に興味を持ったことは持ったが、それだけで、その説を調べてみることもしていない。そういうところに、最近になって多幡名誉教授のホームページとブログにアクセスする機会を得、改めて鏡像問題の「奥の深さ」を思い知らされた気がする。
http://www3.ocn.ne.jp/~tttabata/indexj.htm
名誉教授のホームページにあった鏡像問題の文章は、専門用語を多用した難解なもので、ざっと読んだだけでとても細部まで理解出来る訳はないが、その中で具体的に強い印象をうけたのは、物理的な部分をきちんと証明するには難しい数学が必要になるということ、それと、鏡像問題には狭義の鏡像問題と広義の鏡像問題とがあるということの2点と言える。後の広義の鏡像問題とはどうやら、高等動物の知恵試験などでよく使われる「鏡像認識」にも関わってくるような問題のようだ。この辺りの問題を総合的に、意味的に整理するのは容易なことではないのかもしれない。

もう一つ、検索サイトからのリンクに関して当惑している理由があり、それは検索サイトのリンクに掲載されている当サイトの抜粋部分が私本人ではなく、コメント欄に「コメント」を残して行かれた別人の文章であることである。これは事実上、私の記事へのコメントではなく、コメンター自身の見解を署名入りで開陳したものというべき内容で、私自身はその内容が鏡像問題の議論としては的外れだと思うだけに、余計に当惑していたのだが、このコメントを削除する気にもなれなかった。その説によれば、鏡面反射による虚像は二次元だというのである。最近になってそのように考えることが、コメンター氏の言葉を使えば、そのような「スタンス」が何故可能なのかを考えてみることは重要ではないかと考えるようになった。 2007年12月18日の記事にも書いたことだが、人間の視覚というものは対象の表面しか見ることができない。そのことを前提に鏡面反射の簡単な図を書いて考えてみると、確かに最初は、鏡像は二次元であるかの様な印象を持ってしまいがちであるかもしれない。但しそれは奥行き、距離感を考慮していないことに気づけばすぐに破綻する。まして虚像ゆえに二次元であるという論法は成り立たない。対象の表面だけしか見ることができないのは鏡像に限ったことではないからである。一方、平面スクリーンに映った実像なら、二次元の画像という見方もできないわけではない。鏡の虚像を、スクリーンに映った実像の様なものと勘違いしているとすれば、正しいかどうかは別として、そういう考えかたに導かれる可能性も分からないわけではない。また実際にそのような画像を作ることは可能である。単純に写真のポジフィルムを裏返せば、あるいは裏焼きすればそのような画像を得ることができる。では写真を裏返した画像のイメージは、鏡像問題で左右が逆転して見える原理が適用できないのかという問題が生じる。その写真がステレオ写真であれば、事実上、鏡を見ているのと同じ状況を再現できるのである。しかし片目の人にはステレオ写真は意味がないし、別にステレオ写真でなくても鏡を見ているのと事実上変わらない自分の反転した像を見ることができるのである。ここからは画像とは何か、視覚イメージとは何かという問題に移行する事ができる。画像とは本来二重の意味を持っている。物理的な表面と、表現されているイメージとの2つである。あるいはその中間に二次元のイメージというものも考えられるかもしれない。ただ、少なくとも3次元の対象が表現されていれば、そのイメージも間違いなく3次元イメージと言えるのである。(茶色の箇所は9/20追加)

この問題を取り上げる事になったもう1つのきっかけは、最近、ウィキペディアの日本語版でチャーマーズの記事を読み、記憶に残っている箇所を思い出した事にある。実のところ、クオリアという言葉同様、この高名な哲学者の名前も最近になって知ったばかりである。その箇所を今、引用すると、「チャーマーズは視覚的なクオリアの一例としてしばしば「奥行き」の感覚を挙げる。しかし意識体験に関する議論の文脈で奥行きの感覚を典型例として挙げる研究者はそう多くない。」という箇所である。

奥行き、距離感がクオリアであるとすれば、視覚のすべてがクオリアであるといわざるを得ないだろう。ただ専門的にはよく知らないが、そのような空間的な知覚といわれるものは単なる感覚とは違うもののような印象があり、色とか、痛みといった他のクオリアと呼ばれるものとは相当な隔たりがあることは確かである。少なくとも空間的な知覚は痛みとか色とは違って客観的に記述する事ができる。しかし、視覚とは本来、網膜に映った平面的パターンから、奥行きを持って眼前に広がるイメージを主観的に意識の中に読み取るものであって、明らかに物理現象や生理現象とは断絶がある。空間的な知覚がクオリアであることは明白な事におもえる。空間的な知覚を含めた視覚全体がクオリアであるならば、鏡像問題が言葉の「意味」の問題であると考えることと非常につじつまが合うように思われるのである。