ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

素粒子物理学と社会、人生

前回18日の記事で触れた、日系ビジネスウェブサイトの記事、日本にノーベル賞を出すもう1つの理由 の続編が次々と公表され、興味深い内容から当然のことと思うが、大きな反響を呼び起こしているようである。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20081022/174795/
ノーベル賞と戦時巨大科学の暗闘(下)

このエッセーはインターネットではあるが、新聞ではなく、日経ビジネス・オンラインという「雑誌」の記事として掲載されている。残念に思う、というより一つの希望として思う事は、こういった記事を新聞の科学欄の記事として読みたい、というより掲載して欲しいという事である。というのも、日経ビジネス・オンラインの中でのこの記事は、可成り複雑なカテゴリー構造の中にあり、しかも「伊東乾の常識の源流探訪」というシリーズの記事であって、科学史あるいは科学評論といった、より一般性のあるカテゴリーの枠での記事ではないからであり、一方でウェブ版日経新聞には科学セクションが無く、他社のウェブ版新聞にある科学セクションにもこういった長文の解説風記事が殆ど見られないからである。

こんなことを考えるのも、どうしてもニューヨークタイムズBBCニュースの科学セクションの記事と比較してしまうからだろう。もちろんニューヨークタイムズの記事とBBCニュースの科学欄の記事との間にも多いに違いはあり、具体的に今回の場合はニューヨークタイムズの記事と比較してというべきかも知れない。

上記記事をきっかけにして、これまで見過ごしてきたニューヨークタイムズBBCニュースのCERN(欧州原子核研究機構)の大型加速器建設絡みの記事を幾つか拾い出して読んでみる気になり、とりあえず壮大な研究施設の写真が何枚も付けられた何ページもの長文の記事であったことで強く印象に残っていはたが、読まずに飛ばしていた次の記事を改めて読んでみたところ、上記伊東氏の記事と合わせ読んで見ても非常に興味深く思える内容だった。

A Giant Takes On Physics’ Biggest Questions

この記事はつい最近の記事だったように記憶していたが、実際は昨年の記事であった。つい最近になってこのCERN加速器関連のニュースがいくつも現れてきたので、この記事も最近の記事のように錯覚していたようだ。

こちらの記事では政治的な面も触れられているが、あくまでアメリカとヨーロッパ二者間での、素粒子物理学の業績における競争という面に限られている。やはり、新聞記者による科学欄の記事であるという枠のためか、伊東氏の記事のように個人的な感慨とかに触れることはなく、政治的、歴史的な広がりという面でも視野を狭く取っていると言える。加速器の大型化競争でアメリカが計画していた最大の加速器建設を取りやめる事になり、結局ヨーロッパのCERNの方に資金協力をするようになった経緯などである。

素粒子物理学に関しては、あくまで加速器の建設とその利用と成果における経過に即して、解説されており、ヒッグス博士によるヒッグス粒子の理論的な予言からこの解説が始まっている。それに続く素粒子物理学の説明は、もちろん私のような一般人に納得できるように分かるという訳にはいかないが、何故、各国の物理学者と諸国家の意思でこのような大型加速器を建設し、実験を進めようとするのかというその意義、というよりも気持ちが分かる程度には理解出来るように説明されていると言える。この点、新聞の科学欄における解説的な記事としては非常に巧みな構成といえる。また要所はすべてCERNに所属する科学者達の言葉で語らせている。

そのような意味で特に興味深い部分は、この加速器で何が発見され、何が発見されなかった場合にどのような事態が起きるか、具体的には科学界、科学者達にどのようなインパクトが発生するかを予想している部分である。

最初の方でAtlasチームのスポークスウーマンである Gianotti博士が、この装置が物理学を新しい段階、境地へ導き入れるものだという希望に満ちた言葉に続けて、発見を期待しているものとして次の三つをあげている。

・自身以外の粒子に質量を与えるところのヒッグス粒子
・宇宙に漂う謎に満ちたダークマターを説明する物質の形態
・さらに新しい時空の新次元

二番目と三番目は名前がないのでわかりにくいが、三番目は物理学の新しい局面の展開の材料とでも言ったところだろうか。

以上のようなものあるいは事柄が発見されたり発見されなかったりした場合として、CEN所属の専門学者達の発言を通し、予想されているインパクトとして、以下のようなケースが挙げられている。

この部分の多くはCERNのEllis博士個人が語っている。しかし記事の冒頭近くで博士は「記事の冒頭に近い部分で、もしこの装置で何も見いだすことができないとすれば、自分たち理論家は35年もの間、つまらない問題を議論してきたことになるのだ」というようなことを言っていたのであるが、次の発言ではそれとは多少矛盾するような期待の気持ちを覗かせている。

それを列記すると次のようになる。

・もしも現在仮説である「超対称性」理論が正解であるとすれば、それはCERNにとってボナンザとなるであろう。この理論は未だ発見されない多くの未知の粒子を予言しているので、それら数多くの粒子が発見されることになるからである。これらの粒子は、発見されるとすれば、ヒッグス粒子に比べて早期に発見される可能性がある。

・この加速器が新しいものを何も発見しなかった場合。この場合はすべての理論家にとって興味深いものになる。なぜならそれによって新しい方法を考え、量子力学と相対論のさらに深い考察が必要になってくるからである。しかし、実験家にとっては、これは不幸な事態になる。また計画されている国際リニア・コライダーの資金獲得が難しくなる。

・それよりなお悪い、悪夢とも言える事態は、ヒッグス粒子だけが発見され、それ以外に何も発見されない場合である。その場合、理論家は従来の標準モデルに止まらざるを得ず、一方で謎のダークマターに関しては何の答えも方向性も得られないからである。ヒッグス粒子が当然あるべき質量の範囲内で発見されたとすれば、理論家にとってそれ以上なすべきことは何も無くなる一方、宇宙の基本問題は永遠に解けない謎として残されることになる。こうしてEllis博士の「私は神がそのような理論でボタンを押すとは信じられない」「しかし国際リニアコライダーの実現にとっては、そういう『退屈なヒッグス』だけの発見も、何も発見されないよりは良いだろう」という発言を紹介している。

もちろん私にはよく分からないが、このEllis博士の発言は、おそらくは専門家共通の認識とは言えないかもしれない。しかし一定の説得力が感じられる。

こうしてみると、この加速器プロジェクトの結果が社会と人生に与えるインパクトの大きさは我々の想像以上のものになる可能性もあるのではないかという感じもする。素粒子物理学者の数は日本でも世界でも僅かなものだろう。しかし、その周辺に多くの物理学、化学、宇宙科学の諸々の部門がある。天文学ファンは素人にも多い。素粒子物理学に限っても、現役の学者だけではなく、これから専攻する分野として物理学を視野に入れている学生達もいる。また少し視野をずらしてみれば、何しろ素粒子物理学というのは宇宙と物質の起源という神話的とも言えるテーマの研究であると言えるわけだから、哲学者が興味を持たないわけは無いし、宗教家にとってもある意味では切実といってもいいほどのテーマと言えるからである。

その意味で、伊東乾氏が上記の記事で、オーム事件の首謀者達が高度な物理、化学の学者といってもよいような人物達であったことの意味について触れていたことが思い起こされ、興味深い。この記事では彼らが物理学者、科学者としてのエリートコースを捨てて宗教活動に移行していったことに対して――もちろんテロ事件を起こしたことに対してではなく――氏が一定の共感を持ったこと、そして氏自身も物理学の専門家として生きる道を選ばずに芸術方面に進まれたことが、当時の「巨大科学」の状況との関わりで綴られている。

伊東氏の記事では「冷戦の終結によって巨大科学が岐路に立った」という当時の特殊な歴史的状況との関わりで説明されているが、個人的にはこの問題はもっと根が深く、もっと持続的に現代の科学文明そのものに関わる問題ではないかと思う。

素粒子物理学で扱われているところの、物質や質量の起源とか宇宙の始まりとか、時間の始まりといった問題はこの山、あの山の成因、川や湖、あるいは海洋の歴史、大陸の歴史、さらに地球そのものの歴史や太陽、あるいは個々の星の歴史といったものと比較しても全く次元の異なる話である。そういうものは、過去には神話でしか語られてこなかったものであったし近代科学でも、素粒子物理学以前には物理学がそこまで取り扱うようなことはなかったし、むしろ生物学とか地質学の範疇の中で、宗教的立場とそうでない立場の学者同士の論争のような形で進展してきたのでは無いかと思う。とにかくコペルニクスガリレオなども宇宙の起源のような問題までは語らなかったし語ろうともしなかったのではないだろうか。多くの神話が作り話であったとしても、神話以外の何で、そういう謎めいた日常の感覚で表現し得ない、理解し得ないものを表現できただろうか。

一つ、神秘体験と呼ばれるものが有る、というか、あると言われている。端的に言ってオームの、少なくとも当時の物理学者出身の幹部達は神秘体験を求めていたことは――それだけと言うことはできないかも知れないが――確かだろう。その中でも少なくとも素粒子物理学を専攻していた人物は私などとは違って、素粒子物理学の理論をそこで使われている数学をも含めて、専門的に理解していたはずである。彼はそういう世界で満たされることがなく、神秘体験に「真理」を求めていたのかもしれない。個人的に思っていたことだが、オーム教団が「オーム真理教」と、名称中に「真理」という言葉を入れていたことが、理科系出身者の多くを引き付けた理由のひとつではなかったかと思っている。

先の引用のところで、CERNのEllis博士は「退屈なヒッグス粒子(a boring Higgs) 」という言葉を使っている。現在の理論で止まってしまうのは退屈なことなのだ。完成してしまった物理学というものは退屈なものなのだ。科学一般にもそういう事は言える。

この「退屈」とオームのテロ事件との絡みで今思い出されるのは昨年4月8日の記事で取り上げたニューヨークタイムズの記事である。もと米国心理学協会会長のDr. Zimbardoへのインタビュー記事で、堕天使に由来する「ルシファー効果」という名前の付けられた理論、簡単に言ってしまえば「退屈」が悪の重要な一つの源泉になるという研究と実験をした内容の記事である。

Finding Hope in Knowing the Universal Capacity for Evil

Zimbardo博士の理論そのものはそれだけの単純なものではないだろうし、退屈以外の要因を無視しているわけではない。しかし退屈が最大の悪の源泉であるという理論があるとすれば、それは自体が退屈な理論であるように思える。

Ellis博士が言っていた「退屈なヒッグス粒子」という「退屈」と、監獄という環境で作られた「退屈」とを同列に考えることもできないし、オーム教団がテロという悪に走る以外の選択肢しかなかったとも言えないだろう。

どうも文の脈絡が不明瞭になり、簡単に収集が付かないところに来てしまったようだ。ただ言えることは、科学は退屈に行き着くことがあるということ、そういう事も含め、素粒子物理学の動向が社会や個人の人生に対して、深いところでインパクトを与えることになる可能性を考えることは意味のあることではないかと思う。その点でもこれから始まるCERN巨大加速器での実験がどのような発見をもたらし、素粒子物理学をどのように変えてゆくのか、専門的には分からない部分があまりにも多くありながらも、大いに興味が持たれるところである。