ブログ・発見の発見/科学と言葉 [2006年12月~令和元年まで]

2020年6月22日、本サイトの更新と過去の記事はhttp://yakuruma.blog.fc2.com/ に移転しました。当面、令和元年までの記事が残されています。

以前のタイトル:ブログ・発見の「発見」―科学上の発見から意味を発見―

2007年に本ブログを開始したときは、ウェブサイト上の科学に関するニュース記事(BBCニュース、ニューヨークタイムス、および日本の有名新聞サイト)に関するコメントとして記事を書き始めました。現在、当初のようにニュース記事に限定することなく、一般書籍や筆者自身の記事を含め、本ブログ記事以外の何らかの科学に関わる記事に対するコメント、具体的には感想、紹介、注釈などの記事を書いています。(2019年4月)

生物の摩擦係数と前進運動

次の2つの記事(NYタイムズBBCニュース)ではヘビの蛇行前進のメカニズムが解明されたことを紹介している。
(09/06/08) Snakes' Locomotion Appears a Matter of Scales (N)
(09/06/09) Snake slips show slither secret (B)

同じ内容だが、BBCニュースの方が実験方法やメカニズムを詳細に説明している。従来の理論でヘビの前進運動が十分に説明できないため、基礎物理的な実験を行い、麻酔をしたヘビの静止摩擦係数を測定し、方向によって数値が異なる事を確認した。前向きの摩擦係数が最も小さく横向きと後ろ向きの摩擦係数が大きい。これによって蛇行による前進が可能になるそうだ。アイススケートと同じ理屈であると、Dr. Hu が説明している。

また、ヘビはわずかな上下運動もしており、前進に関わらない身体の部分を持ち上げている。これは人間の歩行と共通するメカニズムだとしている。

定量的には高度の計算をしているのだと思われるが、原理的に単純なところ、また今まで謎であったというところも興味深い。この研究者の所属はNew York University と the Georgia Institute of Technologyで、後者は技術系大学のようだから、生物学の研究者ではなくロボットなどの研究との関わりで始まった研究かも知れない。

この記事は少々前の記事だが、つい最近、またBBCニュースに次のような科学記事が現れた。
Avoiding 'wheelies' slows animals

これは犬の加速能力と姿勢との関係を扱った可成り詳しい研究である。やはり四つ足動物、特に馬や犬の場合は生物学の枠内でも詳しく、よく研究されているようだ。もちろん人間になれば人間工学やロボット工学、さらにはスポーツ科学などでさらに高度な研究がされている事は十分に想像できる。しかし何れも工学よりであり、生物学や人類学の本流からは少々外れたところでの研究だろう。


ところで、生物学の究極の目的というものが想定されるとすれば、常識的に考えても「生命とは何か」ということになる。ところが、現在、特に英米の科学ニュースで生物関係の記事を見ていると、どうも生物学の目的はダーウィン主義を証明することにあるかのような印象がある。多くの発見が、最後にはダーウィン進化論の方にに導かれてゆく。しかし一方、「生命とは何か」という究極的であって難しそうな問題も、一面的ではあっても、もっと単純素朴に考えてみることもできるような感じがするので、特に運動、前進運動というのは生命の本質に関わる問題であると捉えても良いのではないかという気がする。

というのも、運動そのものを考えると確かに物理的で、工学的とさえ言えるような現象であるには違いないが、前進運動というものを考えれば、それは何か意志的な要素を考えないわけには行かないのではないか、と直感的に思うのである。そもそも前進という概念、つまり前とか後とかいう概念は本来物理的なものではないと思われるからだ。


以上、記事の趣旨からは少々逸脱し、飛躍してしまったようだ。このNYタイムズの記事では従来の説に欠陥があったことから始まっている。

冒頭には次のようなフレーズがある。「how it translates wiggling motion into forward movement ― has always been a bit of a mystery」つまり、左右に波打つ動きをどのようにして前進運動に変換するのかという説明には常に謎の部分が残されていたという事だが、それにも関わらず1つの理論が何となく定説とされてきたような印象があるのも妙な話だと思われる。「欠陥ある仮説」とでも言えば良いのだろうか。

明確な欠陥があるにも関わらず、イメージ的に正しそうな印象があって、何となく1つの説明として通用しているというのは科学の世界でも結構あることなのではないだろうかという印象はある。次に取り上げる指紋の機能に関する研究では、従来よく行われてきた説明をurban myth と言っている。しかし個人的には urban myth とは言えない専門学者による正規の研究成果との明確な境界は無いのではないかと思う。


同じように摩擦係数にかかわる問題で、人間の指紋が何のためにあるのかという問題を扱った研究が紹介されている。
(09/06/12) Fingerprint grip theory rejected (B)
指紋の機能も現在のところ、正確には確認されていないそうである。しかしものを掴むときの保持力を高めるためというのが好まれる説明であったそうだ。それを科学者が反証明した、つまり間違いであることを実験で証明したという内容である。

では何のために指紋はあるのか、という事になり、この実験をおこなったDr ENNOS は、滑らかではなく、粗い表面を掴むためであるとか、皮膚が容易に広がり、変形するためであるとか、指紋の溝から水を逃がすためであるというような可能性を指摘している。個人的には水を逃がすためというのは結構効果がありそうな感じがする。

他の研究者の間では、触覚を増感するためという仮説が有力であるそうだ。ただ、その理由は説明していない。

最後に、カエルの足の粘着力を研究しているバイオメカニックスのエキスパートである Dr Jon Barnes が Dr ENNOS の実験結果を支持し、次のようなコメントをしている。
「"It's always nice to knock down an urban myth with good data," he said.」
いかにも自然科学者らしい発言でありながら、社会科学用語と考えられるurban myth という用語を使っているところが興味深い。


以下、蛇足:
urban myth というのは本来urban legend というのが普通のようで、この日本でも都市伝説という言葉は、特に最近、目にする機会が時々ある。ただ、この種の言葉は意味ありげで魅力的ではあるが、こういうところで積極的に使うべきではない言葉のような気もする。ウィキペディアなどで調べてみても、最初に社会学の専門用語として定義された用語であることは確かだが、似たような言葉が前後して使われており、定義も微妙に移ろって来ているようだし、専門を離れて色々な文脈で使われていそうでもあり、実際、使ってみたくなるような魅力的な言葉でもある。しかし、少なくとも自然科学の文脈ではあまり使って欲しくない言葉のような感じがする。日本では一般に「俗説」とか、「巷間で通用している説」というような表現が普通であったように思う。先のヘビの前進運動の場合も従来の説は間違いであることが分かったわけだが、こちらは専門学者が正規の場所で発表した理論である。逆に、俗説でも正しいことが証明される場合もある。NYタイムズでは「Really?」というタイトルで、「俗説」が科学的に肯定できるかどうか、専門科学者が解説するシリーズがある。こういうコーナーで都市伝説というようなタイトルを付けるのも面白しろそうであるけれども、やはりここで「Really?」という、即物的というか、直接的な表現を使っているのは適切であると思う。

しかしそれでも「都市伝説」という言葉には何か魅力がある。但しそれは人間の心理、社会心理そのものの探求として意味があるのであるのであって、各々の「都市伝説」とされる特定の内容それ自体の真偽が問題になる場合にはこういう言葉は避けた方が良いのではないだろうか。ケースバイケースでもっと具体的に、「俗説」とか、「従来の説」とかを使い分けるのが良いのではないか。

とはいっても、自然科学を社会科学的な見地から見つめる必要がある場合もあるだろう。また、専門を超えた自由な言論というべきもの、一般の文学やジャーナリズムなどがそれに当たるかも知れないが、そこでは自然科学も社会科学の要素も何でもありであり、またそうであって当然でもあるわけだが、そのような場でこの種の言葉が好んで使われるのも避けられそもない。ただ、やたらに色々な文脈で使われると混乱がが生じてきそうな言葉ではある。

それでも、CO2による地球温暖化説など、都市伝説的なものとして考察するのも面白いのではないかという印象はある。たとえば以前の記事、『気候懐疑主義(”Climate skepticism”)』という言葉、で言及したことだが、IPCCコンセンサスに批判的なIPCCメンバー、Christy教授の見解によれば、IPCC科学者の合意は集団思考の産物である。IPCC科学者も普通の人間であって、集団思考への追随、屈服や集団心理に動かされているところが大きいのだと言っている。こういう集団思考という概念は社会心理学の用語のようだが、「都市伝説」にも直接関わってくる問題と思われるからである。ただこの場合、都市伝説と言うにはスケールが大きすぎ、「都市神話」と言うべきかも知れないし、「都市」という単位も適当では無いかも知れない。それでも、少なくとも都市伝説的なもの、それと相似形の要素も含まれるとは言えるかも知れない。